IT技術とインターネットの普及により
時代は多くの「クリエイター」を
生み出している。
アート(芸術)、作家、ブロガー、
YouTuberに至るまで、これまでに
ない勢いで、自分の「作品」を世に
出す機会が開かれている。
「作品」は、自分を表現するもの
などと言われる。
ぼくは、このような言説が語られる
たびに、立ち止まって、考える。
脳裏にうかぶのは、真木悠介先生の
絶妙な言葉である。
真木悠介先生は、このことを
フランスの思想家バタイユの芸術論
からインスピレーションを得る。
創造するということは、
「超えられながら超えるという精神
の運動なんだ」と。
つまり、ほんとうの創造ということ
は、創るということよりまえに、
創られながら創ることだと。
…ぼくらは、近代的な芸術を批判
するものとして、バタイユを読み
返すことができると思う。
近代的な芸術というのは、個性の
表現とか主体の表現ということが
あって、…バタイユは、そういうの
は、いわば貧しい創造に過ぎないの
であって、ほんとうの創造は、
自分自身が創られるという体験から
出てくるのがほんとうの創造なんだ
ということを、半分、無意識に
言っていると思うんです。…
真木悠介・鳥山敏子
『創られながら創ること』
(太郎次郎社)
この言葉、「創られながら創ること」
は、鮮烈である。
ぼくは「ほんとうに大切な問題」を
追求していくなかで、大学時代、
「人は旅で変われるか?」という
テーマに没頭した。
そのことを考えていくなかで、
この言葉は、ぼくが感じていたこと
に「言葉」を与えてくれたのだ。
真木悠介先生も、この言葉を
自身のインドへの旅を素材に語る。
ふつうの旅行というのは、
創る旅行であるわけだけれど、
途方に暮れるとか、そういう
ところから、いわば最初の設計
がだめになるということから
インドの旅が始まるという。…
真木悠介・鳥山敏子
『創られながら創ること』
(太郎次郎社)
中国本土を旅したときも、
返還前の香港を旅したときも、
ベトナムを旅したときも、
そしてニュージーランドで
徒歩縦断に挑んだときも、
ぼくは、常に、超えられる
という経験のうち、創って
いくということがあった。
旅に限らず、日常においても、
こうして文章を書くプロセスに
おいてそれは、常に超えられる
経験がある。創られながら創る
という経験がある。
そうして生まれた文章は、
創られるという経験が深ければ
深いほど、自分でも驚きと感動
の気持ちがわく。
それから、人との出会いも、
それが「ほんとうの出会い」で
あれば、関係の構築は、
超えられる経験のうちに
深まっていくものでもある。
真木悠介先生は、
この書の「あとがき」で
「創られながら創ること」という
絶妙の言葉を、「解体と生成」と
して表現している。
ぼくたちは、旅のなかで、
世界で生きていくなかで、
作品をつくりだしていくなかで、
それから人との出会いのなかで、
この「解体と生成」の契機に
置かれる。
「解体と生成」は、
人間の成長の本質である。
「解体」という経験は、
怖いものでもあり、でも同時に
恍惚の経験でもある。
人が変わることができるとしたら、
人が生まれかわれるとしたら、
人が成長することができるとしたら、
この「解体と生成」という経験の
内に、自分を乗り越えていく精神に
よってではないかと、ぼくは思う。