ニュージーランドの山をひとりでめぐっているときに、ぼくは、ぼくの「生きかた」を深いところで照らす<教え>を得た。山小屋で出会ったスウェーデン出身の女性に受けたその<教え>は、それまでじぶんが疑問視してきたことに直接に光をあてた。
正確には、彼女が「生きかた」を説いたのではない。彼女は、ぼくに問いを投げかけたのであった。
「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」
流暢な英語で、彼女の真摯な声がぼくにまっすぐにとどいた。ほんとうにまっすぐな響きであった。
1996年のこと。大学2年を終え休学し、ワーキングホリデー制度を活用してニュージーランドに住むことになったぼくは、最終的に9ヶ月ほどの滞在となったうちの後半に、ニュージーランドを旅した。最初はニュージーランド徒歩縦断に挑戦し、その挑戦が中途で「挫折」したのちは、南島の山々を歩いていた。
ニュージーランドの山々はとてもよく管理されていて、トレッキングのコースに沿って山小屋がうまい具合に配置されている。これらの山小屋を移動してゆくことで、コースを完了することができるようになっている。
そんなコースのひとつを選んで歩いていたぼくは、あるとき山小屋を早朝に出発し、歩みを進め、昼過ぎには次の山小屋に到着したのであった。
つぎの「山小屋」という目的地に着くことができたぼくは、山小屋でゆっくりしていたのだけれど、夕方あたりになって、一人のトレッカーが到着したのであった。休暇でスウェーデンから来ているという彼女は、ぼくと言葉を交わすなかで、冒頭の問いをなげかけたのであった。
「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」
そんな問いを投げかけながら、彼女は、道中で楽しんできた、道の脇に咲く花や草木、また彼女をむかえる鳥たちがどれだけ素晴らしかったかを話してくれた。彼女が投げかけた問い、彼女の「歩きかた」とその楽しみかたに、ぼくの心の深いところに照明があてられたようであった。その光は、ぼくの「生きかた」までをも照らすほどの、まっすぐな光であった。
問いを投げかけられたぼくは、つぎ’の山小屋という「目標」に目を向けて道中をかけぬけてきてしまっていたから、返す言葉を失ってしまった。道中まったく見てこなかったわけではないけれど、道の両脇に咲く花や草木たちとすごす時間は、なるべく効率的に短縮されてしまったかのようであった。
彼女の問いとことば(とその響き)は、今でも、ぼくのなかで光源として輝きを放ちながら、ぼくの「生きかた」に光をあてている。
…「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ。未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ。現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。…
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
見田宗介(社会学者)は、「近代」という時代の特質をこんなふうに書いている。
この特質は、ぼくの心身にきざみこまれていた特質である。ぼくは、「つぎの山小屋」という「未来におかれた目的」のために、現在の楽しみ(花や草木たち!)を禁圧していた。「つぎの山小屋」が達成されることに、ぼくは「充実」を得ようとしていたわけである。それはそれなりに「充実」であっただろう。
けれども、ニュージーランドの自然それ自体、それから道中に出会ったスウェーデン出身の女性の「歩きかた=楽しみかた」は、ぼくの「生きかた」へのアンチテーゼであり、「現在の生をそれ自体として楽しむこと」というまっすぐなテーゼであった。