ぼくの「旅の経験」の奥行き。方法としての「旅」-「目の独裁」から感覚を解き放つこと(真木悠介) / by Jun Nakajima

…目の世界が唯一の「客観的な」世界
であるという偏見が、われわれの世界
にあるからだ。われわれの文明はまず
なによりも目の文明、目に依存する
文明だ。
 このような<目の独裁>からすべて
の感覚を解き放つこと。世界をきく。
世界をかぐ。世界を味わう。世界に
ふれる。これだけのことによっても、
世界の奥行きはまるでかわってくる
はずだ。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)


<目の独裁>から自由になること。
ぼくが生きていくことの、豊かさの
「奥行き」を、言葉として明晰に
提示してくれた、真木悠介の一節である。

この言葉たちが収められている
名著『気流の鳴る音』に出会う直前の
数年間、ぼくは「旅」に魅せられていた。

もう20年以上前のことだ。
東京で感じる閉塞感、あるいは居心地の
悪さのようなものから自由になりたいと
ぼくはもがいていた。

「もがきの閉塞」から、裂け目とその先
に光を見ることができたのは、一連の
「旅」であった。

18歳で、横浜港から鑑真号にのって上海。
上海から西安、そして北京と天津。
天津港からは、燕京号で神戸へ。
19歳で、香港から広州。
広州からベトナム、そして広州から香港。
20歳で、ニュージーランドに滞在。

ニュージーランドから戻り、
ぼくは「本との出会い」を得ていた。
その中で出会ったのが、
真木悠介『気流の鳴る音』であった。

それは、ぼくの「旅での経験」を、
<ことば化>してくれたと同時に、
これまでの「もがきの閉塞」の先に
「新しい世界」の存在と美しさを、
ぼくに提示してくれた。

「旅での経験」で、ぼくの身心をはじめ
からさらったのは、「におい」であった。

中国は「におい」に充ちた空間であった。
香港も、飛行機から降りたときに、
「におい」が、ぼくを出迎えた。
ベトナムも、もちろん、ぼくの臭覚を
襲撃してきた。
それらは、東京では感じなかった。

<目の独裁>から解き放たれ、
世界をかぐ。
真木悠介の言うように、これだけでも
世界の奥行きはかわった。

「旅」は、ぼくにとって「方法」の
ひとつとなった。
そうして、ぼくは、自問した。
「旅で人は変わることができるのか?」

その後も「具体的な方法」を探し求めた。
幼少に視力を失ったエッセイストである
三宮麻由子『そっと耳を澄ませば』など
を読んだ。

「音」の採集などを試みた。
「Dialogue in the Dark」を経験した。

これらを経験してきて、ぼくは<目の
独裁>から抜け出せただろうか。
おそらく、完全に解き放たれた「地点」
などは、存在しないのではないか。

ひとつ言えることは、
これらの経験は、ぼくの「世界」に
確かに奥行きを与えてきてくれたこと。

これらの経験は、ぼくの身心の内奥に、
広々と拡がる「世界」の入り口への、
確かな「楔(くさび)」を打ち込んで
くれた。

 

追伸1:
最近のアジアの国々は、
「におい」が薄くなってきたように
ぼくは感じる。
経済発展と、それに伴う各地の
「都市化」の力学が、
においを脱臭してきたのだと思う。
いい・悪いの話では、ないけれど。

 

追伸2:
写真は、
真木悠介『気流の鳴る音』の
最初の「形」。
ぼくの大切な一冊。
その後、「ちくま学芸文庫」になり
そして、今は、岩波書店の
「定本 真木悠介著作集」に
収められている。