「幸せな社会」あるいは「幸せな人生」という未来の立て方は、その「幸福・幸せ」の定義にもよってくるが、ぼくは一歩引いて考えるようにしている。
ユバル・ハラリが著書『Homo Deus』の中で挙げる、人類のこれからの三大プロジェクトのひとつは「至福」(happiness, bliss)である。
「至福への工学的アプローチ」が進められる中で、幸福・幸せの定義も、一般的な捉えられ方は今後は変わってくるかもしれない。
そのことは一旦保留したままで、しかし、「不幸をなくする」という仕方にたいして、ぼくはしっくりこないものをもってきた。
「幸せ」ということを立てることは、その反対の「不幸」から出発し、それを「なくする」という思考になりやすい。
さまざまな文化の神話に通底している、Joseph Campbellが言うところの「Hero’s Journey」という物語は、幸せだけを物語としていない。
同様に、ぼくたちの生きる道ゆきも、幸せだけで彩られているわけではない。
社会学者の真木悠介は、名著『自我の起原』にたいする質疑応答のなかで、次のような応答を書いている。
不幸とか苦痛をなくすことが問題なら、…世界にたいして不感症になってしまえば、不幸もなく苦痛もない。それよりも人は、苦痛も大きいが歓喜も大きい生の方を選ぶ。人は退屈な幸福よりは絢爛たる不幸をさえ選ぶ。人が結局<自由な社会>を選ぶというのも、こういうことと関わっているように思う。…
真木悠介「竃の中の火ー『自我の起原』補註」『思想』1994年8月号、岩波書店
ぼくも、そう思う。
しかし、世の中では、苦痛をなくすとか、心配をなくすとか、不幸をなくすとかの言葉が、例えば本のタイトルなどでうたわれたりする。
真木悠介は、「エゴイズムの相剋」などに触れて、このような「思考の方法」を転回することを、ぼくたちに提示している。
…今ある不幸の否定の延長線上に未来を構想する、という思考の方法を転回しなければならない。
…「不幸をなくする」「相剋を解決する」というこれまでの社会構想の欠点がよく分かる。消去法で考えてはいけない。否定的なものから出発する限り、どこまでその否定の否定をくりかえしても、肯定的なものに到達することはできない。問題を裂開すること。
真木悠介「竃の中の火ー『自我の起原』補註」『思想』1994年8月号、岩波書店
「否定の否定」はどこまでも「否定」であること。
だから、問題を裂開すること。
言い方を変えれば、問題自体を「問う」ということでもある。
真木悠介はこの転回を方法とし、徹底的に問いを問うなかで、「自我」や「時間」などの問題を裂開し、肯定性へ到達してきたことは、一連の仕事のなかで見られる。
ここでは歴史の事例を持ち出し、ここでは「社会構想」という文脈で語られているけれど、真木悠介の思考の深度は常に「人と社会」を貫くものである。
ぼくは、このような透徹した方法(「問題を裂開すること」)を、いつもうまくいくわけではないけれど、問題の解決を考えるときの、道具のひとつとしてきた。
ぼくたちは、日々、問題に直面する。
そんなとき、ぼくは、立ち止まって、一歩引いて考えたい。
個人や組織の「未来の立て方」が、否定の否定という「否定の連鎖」に陥らないように。