昨年2016年に他界した、イランの映画監督キアロスタミ。
今から20年前の1997年に、彼の映画『桜桃の味』が公開された。
映画『桜桃の味』は、主人公が車を運転するシーンからはじまる。
主人公は、自殺志願で、自殺を手助けしてくれる人たちを探し、物語が展開していく。
このような物語が展開される映画『桜桃の味』には、サウンドトラックのような「音楽」がない。
キアロスタミは、その理由について、「音楽」が「映像の物語」を邪魔するから、というようなことをどこかで語っていたと、ぼくは記憶している。
「サウンドトラック」は、それ自体に「物語」を宿していて、それが「映像の物語」と相容れなくなってしまうという。
「音楽」がない映像、車を運転するシーンなど、キアロスタミ独特の映画スタイルが、この映画『桜桃の味』でもみられる。
けれども、「音楽」がない、ということは、<音楽>がない、ということではない。
車の音、街の音、人びとの生活の音、自然や動物たちの声などの、アンサンブルとしての<音楽>がある。
普段の生活のなかで、これらの<音楽>をきくことができない者にとっては、映画のスクリーンという限られたなかでも、<音楽>をきくことができないかもしれない。
<音楽>をきくものにとっては、映画『桜桃の味』は、独特の奥行きをもって現前すると、ぼくは思う。
ポップやロックやクラシックなどの「音楽」は、ぼくたちの生において、二つの方向性をもっている。
- 欠如を埋めたり、補完したりする「音楽」
- 内に内在する生のリズム・躍動が、苦悩や歓喜として生まれる「音楽」
登場人物たちの心の機微が感じられず面白くない映画は、その欠如を、サウンドトラックの「音楽」で埋めようとするかもしれない。
例えば、人びとの「感情」の動きを、音楽の音の流れと強弱、そしてそこに流れる物語で、補完しようとする。
逆に、「生まれる」としか言いようのない、美しい「音楽」も存在する。
キアロスタミの映画『桜桃の味』は、1を避ける。
映画『桜桃の味』は、観る者を、映し出される生活空間と、映像に出てくる登場人物たちの「内面」に誘う。
映像にはハリウッド映画のような劇的さはないけれど、主人公の内面に内在するとき、その「世界」の動きは劇的である。
映画のモチーフである「自殺」は、この映画が上映されてから20年が経過したのちも、その統計数値は下がることはなく、上昇を続けている。
ユバル・ノア・ハラリの著作『Homo Deus』で展開されるように、人間の暴力(戦争・紛争、犯罪)で亡くなる人たちよりも、自殺で亡くなる人の数の方が多い。
ぼくが住んでいたニュージーランド、そして今住んでいるここ香港でも、自殺数の上昇が問題となっている。
ぼくが住んでいたシエラレオネや東ティモールの紛争・内戦では、ほんとうに多くの人たちが犠牲となったが、戦争のない「豊か」な国や地域の人たちは自ら命を絶つ。
戦争・紛争で人が犠牲になった社会と、自殺で人がなくなっていく社会の往復のなかで、ぼくは考えてしまう。
そして、映画『桜桃の味』は、この情況に裂け目を入れるヒントを、ぼくたちに与えてくれることを思う。
この情況に打ちこまれた裂け目は、「音楽」も<音楽>も、人びとの生を豊饒化する世界を奏でるような世界の可能性を、すこしでも、たしかに切り拓いていくのだと、ぼくは思う。