開発学(「途上国の発展」の学問)と、途上国の現場での仕事を志し、日本の大学院進学を決めたぼくは、入学までの間の数ヶ月の内1ヶ月を、「自動車工場」で働くことにした。
1999年の末のことであった。
大学院では学ぶことに専心したかったことから、「今のうちに資金を貯めておくこと」が目的の一つではあった。短期間集中で、それなりの賃金を得ようと思ったとき、工場での派遣勤務が選択肢の一つであった。
しかし、「お金をかせぐこと」だけであれば、他の仕事もいろいろとある。
ぼくは、「お金をかせぐこと」だけに、生きることの時間をあてることはしたくなかった。
また、「一石二鳥」にとどまらず、「一石三鳥・一石四鳥…」といった具合に、学びと体験という「鳥」をたくさん捕まえたかった。
「自動車工場での派遣勤務」に最終的に落ち着いた理由は、大きくは、次のようなことであった。
- 短期集中で資金を貯めること。
- これから開発学・開発経済学を学ぶうえで、工場での仕事、とくに工場の労働者としての仕事は大切な体験になると思ったこと。
- 産業革命を発端につくられてきた近代・現代社会の、その生産の原動力であった工場と工場での生産を体験しておきたかったこと。
1) 短期集中で資金を貯めること
上述のように、大学院では学ぶことに専心したかったことがひとつの理由である。
大学の日々は、アルバイトに相当の時間とエネルギーを費やしていたことから、大学院では学ぶことに専心したかった。
実際に工場で働くために現地へ行き、ぼくは、工場に短期集中で資金を貯めにくる人たちと出会うことになる。
それなりに「わけあり」の人たちである(ぼくも、いくつもの「わけあり」である)。
ぼくはそのような出会いによって、自分の「内面世界」が広がっていったと思う。
2) 開発学・開発経済学を学ぶ「土台」つくり
数ヶ月先に大学院に入学を控えていたぼくは、社会の「発展」ということの内実を、現場で、体験として得ておきたかった。
途上国の発展は、工業化が駆動してきていること/駆動していくことのなかで、見ておきたかったのだ。
「学」だけにはしたくなかった。
発展の実践を身をもって知っておきたかったし、国家などマクロ的観点での「上からの視点」だけに偏りたくなかった。
実際に、大学院で、日本の工業化や途上国の工業化の経験と実践を学ぶうえで、工場で働いた経験は、自分のなかでの、言葉の「上すべり」を防いでいたと思う。
テキストなどを読みながら、そこに体験を重ねて、頭だけでなく身体で理解していくようなところがあった。
3) 近代・現代社会の存立を考える
自動車工場で働く前に、ぼくは、社会学者・真木悠介の著書『現代社会の存立構造』(筑摩書房)を読んでいた。
そのなかで、「工場の労働者」と「工場の労務管理」の箇所があり、ぼくの関心を捉えていたこともあげられる。
ひとつは、「工場の労働者」の働くという経験について、真木悠介は哲学者サルトルの著書『弁証法的理性批判』から抽出して、考察を加えている箇所である。
…機械ー内ー実践としての労働の両義性について、サルトルはある工場の労働者意識の調査を分析している。…「…機械は機械を完成するところの逆転された半自動性を人間において要求し創造する。」
女工は完全な自動性であってはならない。しかし同時に、完全な精神性であってもならない。完全な自動性であるとき、彼女は可変資本としての固有の存在意義を失う。しかし完全な精神性であるとき、彼女は機械のリズムに適合することはできない。「半自動性」としての半精神性。モノでなく人間でなければならないと同時に、人間であってはならないもの。機械はそのあらがいようのない律動をもって、それに従事する人間たちを、このような両義性として成形する。
人間は純然たる受動性であることを要求されるのではなく、能動性でありながら受動性であることを要求される。…
真木悠介『現代社会の存立構造』筑摩書房
ぼくは、この文章に興味をもち、この「両義性」を体験してみたくなったのだ。
そして、もうひとつは、「工場の労務管理」に触れられている箇所である。
「現代資本主義における労働者管理理論の形成の発端」(真木悠介)となった、「ホーソーン実験」である。
ホーソーン実験は、アメリカで1920年代半ばから1930年代初頭にかけて行われた、生産能率・労働生産性を上げることの実験である。
実験は、物理的条件の変更による生産能率の向上を見ようとしたが、幾多もの失敗の内に、労働者の感情・心理、集団・社会といった生産能率の要因を確認することに導かれていく。
ぼくは、ホーソーン実験の果てに現出してきた、さまざまな「人間中心」の管理を見ておきたかったのだ。
こうして、ぼくは、いくつかの理由と目的をもち、1999年末、鈴鹿の本田工場の自動車生産のラインで働くことになった。
人材派遣会社の方に、ぼくは説明を受け、工場近くのアパートに案内される。
ぼくと同じように、短期間働くために来た人たちと、同居しながら、工場に働きにでる。
シフトは2交代制であったと思う。
ぼくは、自動車の排気パイプの担当であった。
流れてくる組み立て途中の(数種の)自動車に合わせて、排気パイプを準備する。
排気パイプは重く、慣れるまでは、結構大変であった。
この作業が、ひたすら続く。
食事の時間をはさみ、またラインが動いていく。
数種の自動車があることで、完全に「受動的」にならないような工夫があったりする。
いろいろの「初めてのこと」に、ぼくは学び実践することで精一杯であった。
でも、ぼくの印象に強く残っているのは、「人」である。
現場では、社員の方々も、「わけあり」で派遣として働きにきた人たちも、皆、一生懸命に働いていた。
派遣ではない社員の方々は、表面的にはクールさや厳しさに包まれながらも、暖かく、気をつかってくれた。
きっちりと教えてくれ、声をかけてくれ、飲みにつれていってくれ、そして送別会までしてくれた。
ぼくの、工場で働く理由と目的をすりぬけ、のりこえていくように、ぼくの印象には「人」が残っている。
あるとき、中国語を勉強してきたぼくのことを知って、同じチーム(「課」)の方がぼくに話しかけてくれた。
苗字は中国名であったから、中国に何らかのつながりがある方だろうと察した。
今は補助的な仕事をしているけれど、昔は班長や係長などの管理系の仕事をしてきたという。
ぼくは会話のなかで、「どんな仕事が面白かったですか?」と、そっと聞いてみた。
彼は、温和な声で、ぼくに応える。
「「長」として、下で働くものたちの潜在力を引き出せたときだよ。」
そして、ぼくは、その後に歩む20年ほどの人生で、この言葉の<真実>を、体験として、理解することになる。