「Luckily, I am a botanist.」(「運よく、ぼくは植物学者だ。」)
映画『The Martian』(邦題『オデッセイ』、リドリー・スコット監督)で、一人だけ火星に取り残された宇宙飛行士マーク・ワトニー(マット・デイモン)が、生き残りにかける決心の後に、気づき、自分に語った言葉だ。
この言葉には、生きるということの力の源泉と可能性が現れている。
映画は、火星への有人探査の風景から幕が開ける。
赤い大地で、マーク・ワトニーを含む探査チームが探査を続けている中に、巨大な砂嵐が襲ってくる。
巨大な砂嵐により火星探査の任務は中止され、クルーたちは火星から宇宙空間へ退避するため、砂嵐の中、ロケットに向かう。
この退避中に、砂嵐の強風によって折れたアンテナがマークに直撃し、マークはかなたへと飛ばされる。
マークは死んだものと判断され、時間の猶予のない他のクルーたちは火星から離陸してしまう。
砂嵐が去った火星で、マークは意識を取り戻すことになる。
そこから、マーク・ワトニーが生き残りに向けたドラマがはじまっていく。
次の火星への有人ミッションは4年後。
火星に残されたのは、探査用に設営された仮設キャンプと31日分の食料。
飛び立ったクルーたちのヘルメス号にも、NASAにも連絡が取れないという状況。
これは、「問題解決」の究極の試練だ。
冒頭の言葉は、この究極の問題解決の入り口において、マーク・ワトニーが「希望」をきりひらいていく言葉だ。
「Luckily, I am a botanist.」(「運よく、ぼくは植物学者だ。」)
生きるということの力の源泉と可能性の言葉。
希望をひらく「助走」は、この絶望的な状況でも「運がいい」と考えていることである。
その「助走」がありつつ気づきを得たマークは、第一に、「植物」を専門としているということ。
つまり、それが「栽培」という道をひらいていくことである。
このことは、ぼくに、古生物学者デイヴィット・ラウプの進化論にでてくる「理不尽な絶滅」の理論を思い起こさせる。
進化論を「絶滅」から考え抜いてきたラウプが、ゲームのルールがまったく変わってしまうような地球の出来事において生き延びてきた生物たちは、「前のゲーム」でたまたま発達させていた性質を、「変わってしまったゲームのルール」の場でたまたま生かすことで「適応」してきたということを説いた説だ。
「火星に取り残される」というゲームのルールがまったく変わってしまった中で、「植物学者」であることは、「適応」のためには相当に有利に働くはずだ。
これが、一つ目のこと。
それから、二つ目に、「植物」という「生き物と共に生きてきたこと」である。
マーク・ワトニーは、火星で、栽培による「芽」を見つける。
そこで、彼は、この「芽」に触れながら、「芽」に向かって、「Hey there」と声をかける。
一つ目の「栽培」ということが、人の「物質的な拠り所」を築くものであるならば、二つ目の「芽」は、人の「精神的な拠り所」を築くものである。
マーク・ワトニーの他に「誰」もいない不毛の火星で、「芽」は、同じ生きるものとしての「精神」を分かちあうものであったはずである。
遠藤周作の著作『深い河』に出てくる風景の中に、ぼくは同様のことを感じたように思う。
もちろん、マーク・ワトニーが、生き残りに向けて「味方」としていく力は、仲間であったり、音楽であったり、さまざまだ。
しかし、「植物学者」ということの源泉である「植物」がもつ<共生の論理>(食べ物を与えてくれる存在であり、共に地球で生きるという存在)が、マーク・ワトニーに生きる力を与えていくのだ。
それは、宇宙がつくりだした奇跡の芸術作品としての「地球」を照らし出す光でもある。
マーク・ワトニーが、「地球の叡智」を駆使して生き残りに立ち向かったように、ぼくたちは日々を「地球の叡智」できりひらいていくことができる。
不毛の火星に「地球の叡智」を花開かせていくよりは、この地球で「地球の叡智」によりたくさんの花を咲かせる方が、はるかに容易であることを、この映画は見せてくれている。
マークの言葉を反芻しながら、ぼくは、「運よく、ぼくは……だ」の「…」をどの言葉で埋めることができるだろうか、と自分に問いをなげる。