「○○の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないか」。- 見田宗介先生の「生きかた・ありかた」に勇気づけられる。 / by Jun Nakajima

ぼくにとっての「見田宗介先生」はとても特別であって、ぼくが見田宗介先生や著作などについて書くときにじぶんがとるポジションも、「完全な師」の「完全記号」を一生懸命に読みとくような立ち位置に、ぼくはいることになります(※11月11日のブログ「ぼくにとっての「見田宗介先生」と著作群。- どのような立ち位置で、ぼくは書くか。」)。

見田宗介先生の「生き方」においても、「自称弟子」としてのぼくは、その師のふるまいに圧倒的な影響や励ましを得ることになるのです。

たとえば、社会学者としての「生きかた」や「ありかた」においては、つぎのような語りに、ぼくはじぶんの心身のふかくにおいて共感・共振することになります。


見田 ぼくがほんとうにやりたかったことは、…「ほんとうに歓びに充ちた人生を送るにはどうしたらいいか」、そして「すべての人が歓びに充ちた人生を送るにはどのような社会をつくればいいか」ということ、その中でもとくに二つの焦点として、<死とニヒリズムの問題系>、<愛とエゴイズムの問題系>ということでしたが、それは基本的には文学や思想の問題なのです。けれどもぼくは、これらの問題を、現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求したかった。つまり文学や思想の主題を、科学という方法で追求したかったのです。

討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社


追求される<死とニヒリズムの問題系>と<愛とエゴイズムの問題系>という主題と内容をとっても、ぼくの生きられる切実な問題と重なってくるものだけれど、生きかたやありかたということにおいて、つぎの点にぼくは惹かれてやまないのです。

第一に、見田宗介先生が「ほんとうにやりたかったこと」をどこまでも、真摯に追求してゆくという姿勢と継続です。

第二に、「ほんとうにやりたいこと」というのが、ほんとうに歓びに充ちた人生を送るにはどうしたらいいか」という個人の生きかた、そして「すべての人が歓びに充ちた人生を送るにはどのような社会をつくればいいか」という社会のありかたという、とても根源的・根柢的な問題意識につらぬかれていることです。

それから第三に、これらの姿勢と継続と問題意識を、社会学という領域のなかで、孤高的に追求し続けてこられたこと。

見田宗介先生は、別の著書(『社会学入門』岩波新書)のなかで、社会学というものが<越境する知>(※専門領域を越えてゆく領域横断的な知)と呼ばれることにふれ、学問の問題意識においてだけは禁欲してはいけないのだと書いています(※なお、この箇所の文章は、新書に収められるだいぶ前に、AERAムックに掲載され、ぼくはその文章を読んでいました)。

専門領域を横断すること自体を「目的」にしてはいけないとしながら、しかし、じぶんにとってほんとうに切実な問題を追求することの「結果」として領域を横断せざるをえないということ、そこで「禁欲」してはいけないのだと。

ぼくがかかわってきた「発展途上国の問題」とフィールドでの実践は、それらを切実に追求してゆくうえでは「結果」として専門性の領域を超えていかざるをえないというぼくの経験に、見田宗介先生のことばは、直截的に励ましと勇気を与えてくれるものでした。

ぼくにとって、ほんとうに勇気づけることばでした。

なお、「文学や思想の問題」を「現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求」ということも、ぼくにとってとても大切なことであって、まさにぼくが求めるものでもあったところに、ぼくにとっての「完全な師」としての見田宗介先生がおられることになります。


さて、勇気づけられることばは、上で引用したことばのあとに、さらに継続してゆきます。


見田 そんなこと(<死とニヒリズムの問題系>と<愛とエゴイズムの問題系>という基本的には文学や思想の問題を、現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求することー引用者)がどこまでできるか、できないのかはわかりません。けれどもそういう統合の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないかと(笑)。

討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社


「…の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないか」。

「…の冒険に一生を賭ける」ことを見つけることは、だれでもができるものではないかもしれないけれど、「一人くらいいたっていいじゃないか」というように、みずからの生を定め、ひらいてゆく仕方に、ぼくはとても勇気づけられるのです。

「生きかた」を書いたり、「世界で生ききる」ことを書いたり、「未来の社会」を書いたり、ぼくにとって切実な問題は、他者にとっては「とても大きなトピック」だったりするものです(実際に、そのように言われたりすることもあります)。

あるいは「発展途上国の問題」を追求しつづけてきたなかで、ぼくは「発展とは?開発とは?」ということを問わずにはいられず、その後に修士論文でも書いたのですが、そもそも「発展とは?開発とは?」という問題自体が、「とても大きなトピック」です(実践的な問いではないかもしれませんが、ぼくは、問わずにはいられなかったのです)。

そのような「とても大きなトピック」を追求してゆくなかで、ある人は、「トピックが大きいねぇ」などと言われるかもしれません。

そんなとき、若干でも怯(ひる)んでしまう声がぼくのなかに現れることもありますが、ぼくは、やはり思うわけです。

かつていろいろな旅に生き、それからいろいろな場所で住んできた人間が、とても大きなトピックを切実に追求してゆく、そんな人が一人くらいいてもいいですよね、と。

見田宗介先生の<背中>を見ながら、ぼくは、勇気づけられるのです。