竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)。
その竹内敏晴が、ルソーの晩年の作品『孤独な散歩者の夢想』のある箇所を読んでいて「ぎょっ」とした体験を、著書『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書、1990年)のなかで、書いている。
この言葉に、かなり長い間、竹内敏晴はこだわりつづける。
まずは、その、ルソーの言葉である。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
「したいことをすること」ということが自由であることだと思っていた竹内敏晴は、これ以後、「欲しないことをなさないこと」という言葉にこだわりつづけてゆく。
「竹内レッスン」と呼ばれる、「からだ」と「ことば」のレッスン(「話しかけ」のレッスン、「並ぶ」「触れる」「押す」レッスン、緊張に気づくレッスン、声とことばのレッスン、「出会い」のレッスン」など)という、「人が変わること」の具体的な方法を展開しながら、竹内敏晴はルソーの投げかけたことばの「意味」を問うことをしていったのだ。
竹内敏晴はそうして、じぶんなりの「気づき」を得てゆくことになる。
…したいことは容易に見つからないが、したくない、って感じは、人はすぐ感じとることができる。たとい単なるわがままだと言われるような次元のことでも、たしかに、そこに、その人がいるのだ。それを大切にすることから出発すれば、自分が現れてくる。見えてくるのではあるまいか。むしろ、現代では、まじめな人ほどやっていることを自分が好きか嫌いかなどと感じてみようともせず、ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる、という訓練のうちにからだを凝り固まらせてしまっているのではないか。
竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書、1990年
そうして、竹内レッスンの場にいる間は「イヤなのか好きなのか」を、からだに問うということをして、「イヤなことは捨てる」ということをしようとする。
そのことが、<たった一つの出発点>なのかもしれないと、竹内敏晴は書いている。
「ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる」という<身体たち>をいっぱいにつくりだしてきた「社会」は、竹内敏晴がこの文章を書いた1990年頃以降も手をゆるめることなく、一見自由に見える個々人の身体たちを凝り固まらせているように、ぼくには見える。
それらに気づき、ときほぐし、「イヤなことは捨てる」という消去法を出発点としてきた竹内敏晴の方法に、ぼくは惹かれる。
じぶんに何かを「加えること」ばかりを推進する社会の力学から解き放たれ、消去法のうちに、じぶんの「からだ」と「ことば」に向き合う。
「消去」は、「加えること」よりも、時間も労力も要するものかもしれない。
でも、「じぶんを生きていく」ということにとって、それは大切なことであり、竹内敏晴が言うように、ある意味で、<たった一つの出発点>でもあるかもしれないと、ぼくは思う。