「時間」というものが、じぶんの生活においてとても切迫するものとして、あるいはじぶんを束縛するものとして立ち現れる。
あるいは、とても長く感じたり、とても短く感じたりと不思議な時間感覚を生きたりするなかで、「時間」が、まるで人格化されたもののように、あるいは全知全能なものであるように、現象したりする。
そのような日々の感覚のなかで、どうすることもできず、時間にコントロールされるように生き、ときに息苦しくなる。
だから、身体を時間で束縛するような「腕時計」というものが好きになれずにいた。
そのような「時間」という不思議なもの/現象から、ぼくが「距離」をおき、関係をとりもどしてきた、個人の経験のことを少し書こうと思う。
そんなこと読者の方が聞いてもなんの役にも立たないかもしれないけれど、世界には、じぶんと同じように世界を感覚し、悩み、かんがえている人が一人くらいはいるかもしれないという、勝手な前提を立てて、ぼくは書く。
1.世界(異なる「時空間」)を旅し、生きること
「時間」というものが、ある意味で<絶対的なもの>のようにぼくの前に現れていたのが、いくぶん、その姿がほどかれはじめた契機のひとつは、「日本の外」に出たことであった。
それまですっぽりと、そのなかにはまっていた「日本」という社会から出てみることで、<時間はいろいろあるんだ>という感覚がぼくのなかに浸潤してくる。
「日本という社会」は、あるひとつのシステムとして、その内的な時間を共有する時空間であると言える。
18歳ではじめて上海から中国を旅し、20歳のときにはニュージーランドに住み、26歳のときには西アフリカのシエラレオネにいた。
そのように「移動する身体」としてのぼくは、「日本という社会」の「時間」から離れ、それぞれの社会の時間感覚のなかで生きることで、「絶対的なるものとしての時間」から距離をおくことができたように、思う。
2.時間を「時間」として<知る>こと
世界の異なる時空間を旅し、生きることと並行して、とても大切であったのは、<知>として、時間を知ることである。
真木悠介(見田宗介)という知性と生に出逢ったことは、偶然であり、偶然ではなかった。
真木悠介の名著に『時間の比較社会学』(岩波書店)があり、「時間」を、社会科学の主題として正面から、そしてきわめて明晰に論じた本である。
哲学や文学などの「時間論」は楽しいものだけれど、ぼくはいっそう、「時間」の迷宮に迷い込むだけであった。
だから、「時間」を、比較社会という方法のもとに、人類の歴史における社会の変遷のなかで捉える、この名著に、ぼくはすっかり目を見開かせられたのだ。
もちろん、真木悠介が書くように、この本は「時間の問題」を解決するものではないけれども、生きることの「道を照らす」という仕方で、ぼくの「時間の問題」に光を射すものであった。
3.日々の実践、たとえば「Apple Watch」というアシスタントツール
実践的なところで言うと、「Apple Watch」の存在は、「腕時計」という概念を転回させるものであったことが挙げられる。
上記の1と2と直接なつながりはないけれども、「時間」というものがある程度、感覚として、そして知として、ぼくのなかで客観化されてゆくなかで、このような「ツール」が生きてくるようなことはあると思う。
「Apple Watch」は、第一に、「時計」を超えたものであったこと、また第二に、「時計」を超えるものとしてぼくのアシスタントツールであること、において、勝手に抱いていた「腕時計」による時間の呪縛からぼくを解き放つものであった。
「時計」を超えたものであるとは、字義通り、機能として「時計」に限定されず、むしろ時計の機能が「周縁」であることである。
時計の機能を「周縁化」した他の機能たち(SNSや電話通知、ヘルスサポートなど)が、ぼくの「アシスタント」的なツールとして動いてくれることは、ぼくにとって、束縛という感覚を解きほどいてくれるものであった。
世界で異なる「時間」感覚を生き、知でそのことを知り、そして実践的に日常を解体し生成させる。
これは、あくまでも、ぼくの個人的な経験と試みであり、また、ここに書いたこと以外にも、いろいろな試みを日々の実践のなかで生きてきた。
それでも、ときに時間は、あの「時間」として<絶対的なもの>の顔を、ふいと見せることもある。
けれども、ぼくはその顔を見るときに、以前とは違った仕方で、見るだけである。