「カタツムリの世界」へと降り立ち、折り返すまなざし。- ヴャチェスラフ・ミシチェンコの写真世界。 / by Jun Nakajima

『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)という、写真とことばに彩られた小さな美しい本がある。

ウクライナの写真家ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(Vyacheslav Mishchenko)が撮影した「カタツムリ」の写真をならべ、そこに、ひすいこたろうが物語を紡ぐ仕方で、本はつくられている。

ヴャチェスラフ・ミシチェンコのきりとる写真世界の美しさに、そしてその世界の豊饒さに、まさに<ヴャチェスラフ・ミシチェンコの眼>をとおして、ぼくたちは誘われる。


ヴャチェスラフ・ミシチェンコの<眼>を豊饒にしたのは、小さい頃に、写真撮影における「マクロ撮影の技法」に出会ったことであるという。

そこから、この技法を使い、自然が見せる異なる次元へと降り立ってゆく。

前掲の本の「あとがき」で、ミシチェンコは、つぎのように書いている。

…夢と現のはざまにある夜明けの前の時間帯、マクロレンズのファインダーは息をのむほど美しい世界にわたしを立ち会わせてくれます。その世界では、人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけなものなんです。

ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)


ミシチェンコは、たとえば「カタツムリの世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点を獲得している。

それは、ちょうど、「宇宙の世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点とおなじ形であり、視点の「基点」は逆さまだ。

宇宙の視点から「人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけ」と思うことはあっても、カタツムリの世界からそのように思うことはあまりないのではないかと、ぼくは思う。

このように、地球から外部(宇宙)へと出て獲得する視点とは逆に、地球のその自然の内部に一気に降りてゆくことで、ミシチェンコは「人間の世界」をまなざす鮮烈な視点を獲得している。


ミシチェンコは、カタツムリの「生きかた」には<独特の哲学>があるのだとしながら、つづけて、つぎのように書いている。

 カタツムリは、のろいのではありません。ただ「生」を、じゅうぶんに感謝しつつ味わっているんです。
 わたしが伝えたいのは、われわれはカタツムリとほとんど何も違わない、ということ。カタツムリという存在は、「急がないこと」「抗わないこと」の究極の象徴です。それでカタツムリは一生幸せに生きられるのです。

ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)


「人間の世界」において、とりわけ現代社会においては、「早い/遅い」ということは切実な意味をもって立ち現れる。

資本制システムの本質は、「時間との闘い」である。

ぼくたちは、小さい頃から、「早く、早く」ということばのシャワーのなかで生きてきた。

ただし、動物などの寿命が「長い/短い」のかということがあくまでも人間的な視点であるのと同じく、カタツムリが「のろい」のかどうかも人間的な視点にすぎない。

大切なことは「早い/のろい」ということではなく、ミシチェンコが書くように、「生」をじゅうぶんに感謝しつつ味わっている、かどうかということである(なお、原文がどうかはわからないけれど、「感謝しつつ」ということはより正確だ。「感謝してから」味わうのはではなく、味わいのなかに、感謝がわきでてくる)。

この地球という新鮮な奇跡を、ミシチェンコが撮影したカタツムリたちのように、じゅうぶんに味わうこと自体が、「幸せ」ということでもある。