2019年にしようと思っていたことに、さっそくとりかかる。「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」。
それは、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読むこと。
読むことの「先」になにが明確にあるのかはわからない。明確に「読む目的」があって読む本もあるけれど、鶴見俊輔の著作が、ぼくをどこにつれていってくれるのかはわからない。
なお、鶴見俊輔の著作にふれることは初めてではない。20年ほどまえに、鶴見俊輔の作品にふれたことがある(鶴見俊輔をめぐる論考やエッセイはいくつか読んだことがある)。でも、当時は、ぼくの側が「読む準備ができていない」状況であったのだと思う。
今回ふたたび読もうと思った直接的なきっかけは、2018年に読んだある本の「あとがき」の記述であった。
それらの本は、加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015年)と見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)。
加藤典洋は、じぶんという書き手をつくってくれた鶴見俊輔にどうしても読んでほしいと、大著『戦後入門』の執筆を急いでいたが、まにあわなかった。いっぽう、見田宗介は、「鶴見さんの、素朴なポジティヴなラディカリズムは、一番大切なことをわたしに教えてくれた」と書き、自著を鶴見俊輔に捧げている。
心から尊敬する加藤典洋と見田宗介の両氏が、鶴見俊輔から「教えられたこと」をそれぞれの生のなかで、それぞれの仕方で継承している。
ぼくはそのように続いてゆく「(一番)大切なこと」を、ぼくの仕方で、ひろいだしたくなったのである。でも、明確な仕方で、目的地がわかっているわけではない。ただあるのは、きっとぼくにとって大切なこと(気づきなど)があるのだという感覚だけだ。
鶴見俊輔の著作を読むために、いろいろと「助走」はしてきたつもりだ。加藤典洋と見田宗介の著作を読んできたことも、ある意味、「助走」だとも言える。
「鶴見俊輔」についてふれられているものも読んできた。見田宗介は、鶴見俊輔について、たとえば、つぎのような逸話を論壇時評として書いた文章のなかにすべりこませている。
…(…「こんど出た吉本隆明の『ナショナリズム』をもう読みましたか?わたしが徹底的に批判されているんです。すばらしい論文です。ぜひ読んでみて下さい」。学生であったわたしに鶴見は目を輝かせて言った。爽快だった。本質的な思想家は、論争での勝敗などには目もくれぬものだ)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
もちろん、ここには「見田宗介の眼」を通した「鶴見俊輔」が語られている。そうだとしても、ここにはとても大切なことが語られていると、いくども読み返してきた箇所だ。
というわけで、2019年、さっそく「鶴見俊輔コレクション」の一冊、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)を手に入れて、読み始めることにした。
「自分の足で立って歩く」と題された第1章の最初に、「イシが伝えてくれたこと」という文章(談話をもとに文章化されたもの)が置かれている。その最初から、ぼくの思考と感覚は、鶴見のことばにつかまれてしまう。
西洋哲学史は、その全部をプラトンに対する注として読むことができるという。その傾向は中国にもあって、あらゆる著作は『論語』に対する注として読めるというふうに、新しい発見は全部新しい注として発表される。
これはおもしろいかたちなのだが、哲学史の書き方は、必ずしもそうでなくてもいい。自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書くこともできる。どちらかといえば、私はそちらのほうを採りたい。哲学というものを、個人が自分で考えて動くときの根元の枠組みとして考えたい。鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
「自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書く」。
これだけでもぼくは心ひかれるけれど、「イシが伝えてくれたこと」という文章は、たくさんのことをぼくに教えてくれる。
今年も、すばらしい出会いが、目の前にひろがっていることを予感する。