Thomas Thwaites(トーマス・トウェイツ)の著書『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』(Princeton Architectural Press)(邦訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』村井理子訳、新潮文庫)という、ユニークな本がある。
ヤギになって人間の悩みから解放されることを想像する。ふつうの人であればそこで折り返して「現実世界」に戻ってくるのだけれど、トーマスはそのような夢想をつきぬけてゆく仕方で、実験へとつきすすんでゆく。そんなユニークな実験録である。
そう、世界はいろいろな人たちで充ちているものだ。
そのような方向に「つきぬけること」はしないぼくは、冒頭(「Intoroduction」)の、ちょっとした記述が気になってしまう。
ロンドンのWaterlooで、トーマスはコーヒーショップに座って通勤の流れを見ながら、いろいろな「思い」を綴っているのだが、ぼくが気になったのは、かつてルイ・ヴィトンで働いていた友人がトーマスに語ったことである。
ルイ・ヴィトンの店員さんたちは、店に入ってきた女性を判断することにおいて、彼女の服装というよりも、彼女の髪を見るように訓練を受けるのだという。
なるほどなぁ、と、ぼくは立ち止まってしまう。
友人が語っただけのことなので、実際にどうかはわからないけれども、その話の正否はどうあれ、服装よりも髪を見て人を見極める、というのは、見極めの方法のひとつだなぁと思う。
ぼくの「経験の記憶」が、一気に作動する。
経験のなかでも、とくに、じぶんの「髪」に対する姿勢・態度という点から、この方法は結構大切なポイントをついているように思えてくるのだ。
人を見て、なんらかの「判断」をするときに、「見た目は関係ない」という見方もひとつだ。
でも、シャーロック・ホームズが「見た目」からさまざまな情報をひきだしてゆくように、「見た目」が語る情報は、やはりさまざまにあると、ぼくは思う。
くどい言い方かもしれないけれど、「見た目は関係ない」といった<見た目>もあるものだ。
「じぶんの外見は他人にどう見られてもいい」と思う人を大きく分けると、二種類に分けることができる。
● 「じぶんの外見」は、じぶんにとってもどうでもいい、という人
● 「じぶんの外見」は、じぶんなりにこだわる、という人
「他人にどう見られてもいい」という思いは同じであっても、そこに向けられる姿勢・態度は真逆になるのである。
ぼくの「経験の記憶」をたどると、いつしか、ぼくはこの内の前者、「じぶんにとってもどうでもいい」というところに向かっていたことがある。でも、そこから、後者へと、方向転換してきた。
「じぶんにとってもどうでもいい」ということは、正面からそうは思っていなくても、結局そうなっていたりする。いろいろな理由や事情をひっつけて、その方向に向かってしまうのだ。
そんなことが、たとえば、「髪」という外見に現れるのだ。
服装というよりも(服装もそうだけれど)、むしろ髪を見ると人(他者も、じぶんも)がわかることがある。
そんなことを、「髪」をカットしてもらいながら、ぼくは考える。トーマス・トウェイツの本の冒頭に書かれている、ルイ・ヴィトンで働いていた友人の話を思い浮かべながら。