「We shall not cease from exploration…」(T.S. ELIOT)。- 「終わり」にたどりつくところ。 / by Jun Nakajima

ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著書『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)のはじまりのところに、T・S・エリオット(1888-1965)の詩集『Four Quartets(四つの四重奏)』からの抜粋の一部をおいている。


We shall not cease from exploration 
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time. 

T.S. ELIOT


「はじまりと呼ぶものはしばしば終わりであり、終わらせることははじめることである」というようにはじまる『Four Quartets(四つの四重奏)』「Quartet No. 4: Little Gidding」の最終節(第5節)の、そのほぼ最後のところに記されている言葉である。

「われわれはエクスプロレーション(探検・探査)をやめることはない。すべてのエクスプロレーションの終わりはわれわれがはじめた場所に到着することであり、またその場所を初めて知ることである。」


「はじまりと終わり」の、その「構造」だけをざっくりととりだせば、メーテルリンク『青い鳥』、パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などにも見られる構造である。また、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作(『気流の鳴る音』『宮沢賢治』)でも見られる、ものごとを読み解く「四象限と円環」も、おなじ構造をもっている。

ロバート A. ジョンソンは、「人生の前半/(中年)/後半」を語ってゆくなかで、このことばを導きの糸としている。


大切なことは、このような構造をただ単に「知る」ことよりも、「生きる」ことであるように、ぼくは思う。つまり、実際に、体験・経験することである。ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』で、シッダルタが、この体験・経験の中にひたすら身を投じていったように。

じぶんの心身を通じて<知ること>は、ぼくたちの<知恵>となり、生きることに深みをつくりだしてゆく。

エクスプロレーションの終わりにたどりつく場所は、はじめた場所であるかもしれないけれども、その風景は重層してゆく風景であり、やはり異なる仕方でぼくたちの目に見える。

ぼくも、いろいろなエクスプロレーションの果てに、結局「はじまりの場所」に戻ってきたようにも思うのだけれど、そのエクスプロレーションのはじまりには見えていなかった仕方で、その場所を眺めているように思う。エリオットが書くように、まるで「And know the place for the first time」のように。