「ただいるだけで」(相田みつを)。- 「being」のちから。 / by Jun Nakajima

詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)のことばを、これまで、いくつかとりあげてきた。「夢中で仕事をしているときは…」であったり、「しんじつだけが…」であったり。

それらをとりあげながら、もうひとつ、ぼく個人として気になっていたことばがあった。まったくの、ぼく個人の好みであるのだけれど。

それは、「ただいるだけで」、と題されている(「相田みつを美術館」ポストカードより)。


あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる

あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ


そんな
あなたにわたしも
なりたい

みつを


人を語るとき、「doing」と「being」という視点で語ることがある。

現代社会はことさら「doing」が強調され、評価され、うながされる。「行動」が人やものごとを動かし、何かを生みだし、結果を出してゆく。これまでの「行動」をのりこえてゆく「多動力」(たとえば堀江貴文の著書にもある)ということも、行動の延長戦上にある力だ。

「行動」で現状をきりひらいてゆく。「行動してゆくこと」の大切さは自明のことであるだろう。

けれども、「being」をあなどってはいけない。

大切であり、現状をきりひらくはずの「行動」が、「being」、つまり、人の「ありかた・あり様」次第では、からまわりするだけだ。

最近読んでいる、ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著作『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)では、「人生の前半/(中年)/後半」という流れの中で、「人生の後半」には、(前半でフォーカスしてきた)「doing」だけでなく、「being」も大切にしてゆくことが勧められている。

また、これからの「doing」が、AI(人工知能)などのテクノロジーに補完されてゆくのだとしたら、人においては「being」ということがいっそう重要になってくるのだと言うこともできるかもしれない。

でも、上でとりあげた、相田みつをの詩を読んでいると、「being」の大切さや効用などをことさらに指摘してゆく必要もないようにも思う。

「ただいるだけで」を読んでいるだけで、ただ、ぼくもそうなりたいと思うのだ。

なにをするのでもなく、ただいるだけで、場の空気があかるくなり、みんなのこころがやすらぐ。ただいるだけで、場やひとがうごいてゆく。

ぼくも、そうなりたい。

なろうと思って、なれるものでもないのだけれど。