Lil Dickyの曲『Earth』。- 「We are the Earth」としての共演。 / by Jun Nakajima

昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。

最近、地球環境のことをいろいろ考えている。べつに環境専門家でも環境活動家でもないし、環境保護にとりわけ熱心というわけではない(できる範囲では「楽しく」関わりたいと思う)のだけれど、上述の「宇宙」の関わりで言えば、<宇宙から折り返す視線>で地球を見るとき(たとえ、それが架空の映像であっても)、やはりそこに美しい青い惑星が存在していることが、ひとつの奇跡のように感じたりして、地球環境のことを考えてしまうのだ。

目の前にひろがる空や海、木々など、さらには空を飛び、きれいな声を放つ鳥たち、花のまわりを飛び交う蝶たちなどの存在も、この地球での共生ということをつきつけてくる。さらには、自分の家の片づけをすすめながら、「モノ」(厳密にはモノと自分との関係)を見直しながら、いろいろと考えさせられるのだ。


そんな折、2019年4月22日の「Earth Day」に先行するかたちで発表された、アメリカのラッパーLil Dickyの曲『Earth』を、ぼくはたまたま、Apple Musicをブラウズしているときに見つけたのであった(※この曲については、先月末のぼくの「メルマガ」で紹介させていただきました)。

Lil Dickyの『Earth』は、4月19日にシングル版が発表され、翌日に音楽動画(※YouTubeに飛びます)が配信された。

曲自体、そのメロディーも、それから歌詞も魅力的であるけれど、やはり音楽動画(※YouTubeに飛びます)で見ることをおすすめしたい。

そして、話題をつくったのは、声で登場するさまざまなミュージシャンたちだ。Justine Bieber、Ariana Grande、Shawn Mendes、Halsey、Ed Sheeranなどが、声で参加している。参加アーティストそれぞれが動物や植物などの役を担いながら(たとえば、トップバッターのJustine Bieberは「ヒヒ(baboon)」というように)、声(歌声)で登場してくる。

Leonardo DiCaprioも出てくるので「なんでだろう」と思ってしまうのだけれど、この曲の収益は「Leonardo DiCaprio Foundation」を通じて環境保護活動に使われることが背景としてあるようだ。

有名ミュージシャンたちの顔ぶれを見ていると、昔、『We are the World』という曲があったことを思い出す。この曲は「We love the Earth」と歌うけれど、それはどこかで「We are the Earth」といった趣もあるのだ。

でも、『We are the World』が、この世界の「人と人とのつながり」を促したのにたいして、『Earth』は、この地球の「人と地球(動物や植物など)とのつながり」を唄っている。そんな時代の移り変わりを見てとることもできるように、ぼくは見る。


曲の終盤の「語り」の部分で、登場人物の「人間」は、「Are we gonna die?」というJustine Bieberの質問に対し、「We might die」と応答するところがある。そんなふうに、正直に、応答される。いらだちを込めながら。「We」つまり人類が死んでしまうかもしれないのは、地球の温暖化がほんとうに起きていることを信じない人たちがいるから、と語りながら。

見田宗介先生は1980年代半ばの論壇時評で、19世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>であったのに対して、20世紀末の思想の極北が見ているものが<人間の死>であることを指摘している。

それはさしあたり具象的には核や環境破壊の問題として現れているけれど、若い人たちはそうではない仕方でも感受しているのだ、というふうにも書いている。この指摘は、きわめて鋭敏である。


…核や環境汚染の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなっているはずだ。未来へ未来へ意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。二〇世紀末の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。
 人類の死が存在するという…明晰の上に、あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に、わたしたちはいる。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫


『Earth』という曲を聴いていると、見田宗介先生のこの指摘を、ぼくは憶い起こす。

人類の死が存在するという明晰のうえに築かれる「あたらしく強い思想」がひとりひとりの生活のなかにひらかれてゆくとき、それは具象的な仕方で現れている「環境破壊」の問題も、解決の軌道にのってゆく。