倫理主義ではなく、<楽しみながら生活水準を下げる>という方法。- 見田宗介の文章「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」に触発されて。 / by Jun Nakajima

ここ数日のブログでは、宇宙と地球の<はざま>で想像力をはたらかせながら、「地球環境」のことにもふれてきた。そのことに関連して、「環境保護」のようなことを考える。「環境保護」の仕方について考えるとき、見田宗介先生(社会学者)による「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを、ぼくはときおり憶い出す。

1980年代半ばの論壇時評として書かれ、その後『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)という本のなかに収められ、さらに1995年に出版された『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)にも収録された文章である。どちらの本も今では絶版になっており、またこの文章は論壇時評という性格もあってか見田宗介著作集にも収められていない。

新聞紙上に掲載された文章で短い文章であるけれど、ひとりひとりの生き方と未来を見据えた、美しい文章である。

以前(2017年の夏)、月明かりがまぶしい夜に、やはりぼくはこの美しい文章のことを憶い起こし、ブログに取り上げたことがあるので、(一部変更して)それを再掲しておきたい。


ーーーーーーーーーーーーーーー

「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で描きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。この文章は、社会学者の見田宗介が1985年に新聞で連載していた論壇時評のなかの一回として書かれ、その後書籍に所収されている。

この文章の中で、雑誌編集をしていたAという人が、アメリカ・インディアンと一緒に幾年かを生きてきたKと結婚して、日本の田舎に移りすむ「記録」が取り上げられている。その「記録」は「わが家に電気がついた日」と題されている。


…東京で生活してきたAにとっては、田舎で暮らしたいと思っていた時も、電気はあって当然に近いものだった。けれどもKは、せっかく電気が来ていない家に住めるのにという。Aも原発には反対だしと、当面は電気なしでいくことにした。案外不便は感じないし、何よりも<夜が夜らしく存在する>。
 唯一めげたのは洗濯で、…結局電気は引くことにする。冷蔵庫やテレビはいらないが、洗濯機だけはおくだろう。けれどこれからも満月の夜だけは電気を消して、<闇について、この明るすぎる文明について語り合います>と書いている。
 かれらは何もよびかけたりしてはいないし、自分たちの限界点を記録しているだけだけれども、この記事をよんだかれらの友人たちは、満月の夜をそれぞれの場所で、みえない全国の友人たちと呼応して<闇>を共有するという、しずかな祭りの夜としてゆくかもしれない。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


「311」を契機とした原発にかんする議論はまだ思考にこだましているけれど、それよりも30年ほど前にも原発問題ということが、生きられる問題として語られ、その「出口」をさぐる人たちが無数にいたことは、これからの「出口」をさぐるうえでもヒントを与えてくれる。

この文章を読みながら、これが「現代」として読んでもまったく違和感がないほどに、問題と課題はひきつづき、人と社会の根底によこたわっている。

上の「記録」は、しかし、見田宗介がわざわざ指摘しているように、「何もよびかけたりしてはいない」。声高なよびかけのかわりにあるのは、みずからの「生活の仕方を変える」ことと、その生活の記録の共有である。

見田宗介はさらにこう記している。


…このこと(*生活の仕方を変えること)を倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方でやっている。それは失われたよろこびたちを(快楽から至福にいたるその一切のスペクトルにおいて)取り戻してゆくというかたちをとるだろう。ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向とが、コンパスと地軸のように合致している。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


ぼくはここに語られていることに深く共鳴する。

地球環境のための「消灯キャンペーン」はその試みをぼくは否定しないし、もともとの「情熱」とそこから出てくる行動力には頭がさがる思いだ。しかし、地球環境のために、という罪悪感と倫理主義におされながら「消灯」を実行するとすれば、ぼくはそこに居心地の悪さを感じてしまう。そうではなく、楽しみながら消灯をすること。

そして、それは、罪悪感でも倫理主義でもなく、人の生のよろこびと共振してゆくということ。


このようなことを書くとすぐに寄せられるであろう「批判」を想定して、見田宗介は最後にこう付け足している(「想定される批判」にあらかじめ答えておくことを、見田宗介は書くことの方法のひとつとしている)。


 電力の総需要といった計算からすれば、さしあたり一兆分の一ほどの効果しかもたないだろう。けれども一兆分の一だけの自己解放をいたるところで開始すること、それらがたがいに呼応し、連合していつか地表をおおうこと、このことを基礎とすることなしにどのような浮足立った「変革」も、もうひとつの抑圧的な制度を出現させるだけだということを、二十世紀のすべての歴史の経験が書き残している。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という文章に出会ってから、20年ほどが経過した。「ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向」というコンパスと地軸を、ときおり確かめながら、ぼくは生きてきた。

それでも、現代あるいは都会の生活圏は、「消費社会」への居直りへという磁場(マグネティック・フィールド)を形成していて、コンパスと地軸がゆらぐ。その磁場の中で、ここ4~5年ほどは、家では夏に「クーラー」を使わず、扇風機たちと共に暮らしている。

楽しみながらというと変だけど、ぼくの身体がよろこびながら、クーラーを使わない方向へ生活水準を落としている(それでも電気は消費しているし、生活のなかにクーラーがなくなるわけではないけれど)。そう、<夏が夏らしく存在する>。

ーーーーーーーーーーーーーーーー


倫理主義的ではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方を、ぼくは強調しておきたい。

倫理主義は「我慢」をいたるところにつくり、反抗する者たちを創出してゆく。そうではなくて、プロセスそのものに<歓び>が充ちていること。このような仕方が、時間はかかるかもしれないけれど、楽しく受け入れられ、確かな方法として根をはってゆくだろう。

こんなふうな見方をすると、たとえば「環境保護」という言い方自体が、おかしく聞こえてくる。環境を保護「しなければならない」という言い方は、倫理主義的である。そのような言い方が必要な文脈があることを理解しつつ、ひとりひとりの生き方としては、<楽しみながら>生活の仕方を変えてゆくほうへと舵を向けること。ぼくはそんな方向性がいいなぁと、思っている。