日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。
10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。
ぼくが子供の頃は10月10日は「体育の日」だったけれど、第2月曜日への移動により状況は変わってしまった。
「人生100年時代」を生きる際の課題のひとつは「目」であり、目の大切さを改めて感じている。
とりあえずは、コンピュータや携帯電話の画面に向かっては、時折休んで、遠くに目をやったりしている。
「目が悪いこと(視力が低いこと)」については、15年程前に東ティモールに住んでいたとき、東ティモールのテトゥン語の語彙を東ティモール人の同僚に投げかけられて、気づかされたことがある。
コンタクトレンズではなく、眼鏡をかけていたから、ぼくの目の視力が低いことは誰もがみてとることができた。
テトゥン語で、その時に投げかけられたのは、次のような言い回しである。
「matan aat」
「matan」は、「目(=eye)」のことである。
形容詞の「aat」は、「悪い・壊れた(= bad, broken)」などの意味合いである。
「matan aat」ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた目/目が壊れている」と訳した。
「壊れた」と訳したのは、こんな事情がある。
東ティモールのハードなオフロードでの移動により、よく車両が壊れるのだが、「車両が壊れた」ということを「kareta aat」という言い回しでコミュニケーションをとっていたからだ。
語彙数の限定的なテトゥン語であるから、そして外国人であるぼくとのコミュニケーションであるから、ひとつの用語がいろいろに使われる(ちなみに、コーヒー豆のよくないものも「cafe aat」として会話していた)。
だから、ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた車両」と言うのと同じように、「壊れた目」と訳したのだ。
「matan aat」は、テトゥン語の教科書などに「blind」として載っていたりするけれど、当時は、目が悪いということで、ぼくたちはコミュニケーションをとっていた。
東ティモールで眼鏡をかけている人は圧倒的に少ない。
東京や、ここ香港とは比較にならないほど、眼鏡をかける人口は少ない。
ましてや、東ティモールの子供たちはまずかけていない(今はどうかわからないけれど)。
ここ香港では、ほんとうに小さい子供たちが、眼鏡をかけている。
日本にいるときには眼鏡をかけていることが「普通」だったのが、東ティモールでは「普通ではない」こととしてある。
あるいは、どこかかっこよさやインテリ的なものを含んだ「見方・風景」から、「そうではない見方・風景」へと、ぼくの<物事を見る眼鏡>を変えてしまう。
東ティモールという環境の中で、「matan aat(壊れた目)」と言われて、ぼくの目に対する「見方・風景」が変わってしまった。
異なる環境で、異なる言語で、ある「同じもの」を語るとき・指し示すとき、その「効果」のひとつとして、物事を見る「見方・風景」を変えてしまうということがある。
それは、とても鮮烈な経験であった。
言語でつくられる「檻」から解き放たれる経験のひとつだ。
今でも、じぶんの目のことに思いをめぐらすときに、このテトゥン語が立ち上がってくることがある。
ぼくたちはこのように、「世界の見方・風景」を変え、もっとひろい「世界」へと視界をひろげてゆくことができる。
ぼくたちが「変わる」ということの拠点のひとつとして、ぼくたちはそこに拠点のひとつをもつことができる。