ぼくたちは、普通、自分の身体は「自分の所有物」であることに疑いを持たない。
英語では、自分の身体の全部あるいは一部を呼ぶ際には、やはり「my(私の)」をつける。
ぼくもかつて明確にそのように思っていたわけではないけれど、やはり疑いをもたなかったと思う。
「疑いをもたない」ことに風穴を開けてくれたのは、真木悠介の名著『自我の起原』(岩波書店、1993年)であった。
真木悠介の著作の前に、養老孟司の語りをひろっておきたい。
著作『「自分」の壁』で、養老孟司は「私の体は私だけのものではない」ということを書いている。
養老孟司は、人間の身体の中にある「ミトコンドリア」について説明を加えている。
人体は約60兆の細胞から成っていて、その中にミトコンドリアがある。
ミトコンドリアは、酸素を吸い、糖を分解してエネルギーを生むという重要な仕事をしている。
ミトコンドリアを調べると、細胞本体とは別に、自前の遺伝子を持っている、ということがわかってきました。…
ミトコンドリアに限らず、細胞の繊毛や鞭毛のもとになる中心体も自前の遺伝子を持っています。…
遺伝子は生物の設計図だといいます。しかし、体内にいる細胞が別の設計図を持っている。これをどう考えればいいのか。
養老孟司『「自分」の壁』新潮新書
養老孟司は、1970年代に提出された、リン・マーグリスという生物学者による仮説を紹介している。
それによると、「自前の遺伝子を持つものは、全部、外部から生物の体内に住みついた生物である」というものだ。
かつては否定されつづけたと言われるマーグリスのこの仮説は今ではある程度受け入れられるようになったという。
このマーグリスによる主著『細胞の共生進化』を丁寧に読み解きながら、真木悠介は『自我の起原』の「共生系としての個体」という章で議論を展開している。
真木悠介は、生成子(遺伝子)から人間のような多細胞「個体」が生成される過程を問題とするときの問題設定として、二つの階層の創発があることを最初に指摘している。
- 原核細胞(単純な細胞形態)からの真核細胞システムの創発
- 多細胞「個体」システムの創発
個体中心的な「日常の思考」はこの内の2番目を重大視するけれど、専門家たちの主流的な認識はこの1番目における創発が「決定的」であったということであるという。
この1番目の理論展開において、前出のマーグリスが登場する。
マーグリスの理論展開を概観した後に、真木悠介は次のように書いている。
今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
ぼくたちの身体は生命の<共生のシステム>である。
「私の体は私だけのものではない」と養老孟司が言うとき、そこにはこの<共生のシステム>という事実と畏れのようなものがある。
真木悠介(見田宗介)は、別の著作で、この事実に触れて、尽きない好奇心を文章に載せている。
…この「身体」自体が、多くの生命の共生のシステムなのです。これはほんとうに驚くべき、目を開かせるような事実なのですが、長くなるから省きます…。われわれの身体がそれ自体多くの生命の共生のシステムであるという事実が、「意識」や「精神」といわれるものの究極の方向性とか、われわれが何にほんとうに歓びを感じるかということにも、じつに豊饒な可能性を開いているのです。
見田宗介『社会学入門』岩波新書
ほんとうに驚くべき、目を開かせる事実であると、ぼくも思う。
じぶんの身体を、事実を知る前と同じようには見ることができなくなってしまうような事実である。
真木悠介は、「私」ということを「現象」であると述べているように、それは確実なものではなく、立ち現れるものである。
身体はその意味で「私」ではなく、また養老孟司の言うように私だけのものでもなく、それはひとつの<共生のシステム>だ。
このようにして、「健康」とはこの共生のシステムの「環境問題」であると、ぼくは考える。
そして、ぼくは、ぼくの身体に共生する多くの生命たちにたいして、感謝すると共に、畏れのようなものを感じてやまないのだ。