時代の変わり目に「貨幣」を本質的に考える。- 「貨幣とは外化された共同体である」という真理。 / by Jun Nakajima

時代の変わり目に「貨幣」について、本質的に考えていくことがますます大切になってきている。

日々の生活がかけられている「マネーゲーム」ということの、その「ゲーム盤」自体が揺らぎ、変容をとげようとしているからである。

仮想通貨やベーシックインカムなどはメディアでも頻繁にとりあげられ、またクラウドファンディングなどの方法もよく語られる。

このような新しい形式は視野に入れながら、しかしここでいう「時代」の区分は重層的で、長い射程においては、紀元前にまでさかのぼる。

中間的な射程においては、例えば「近代」という時代であったりする。

理論的な記述として、その本質をとらえている社会学者である見田宗介の文章を、ここで挙げておきたい。

 

 近代社会の古典形式は、かつて第一次の共同体のもった、人間の生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」として開放し、人間の生の精神的な根拠としての側面を「近代核家族」として凝縮する、という二重の戦略であった。
 「貨幣とは外化された共同体である」という心理は、「市場」として散開する共同体のこの第一の側面に定位している。貨幣のシステムは、微分され/積分される共同性である。限定され/普遍化された(specific/universal)協働の連関である。貨幣はこの限定され/普遍化された交換のメディアであることをとおして、近代的な市民社会の存立の媒体であるが故に、その<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>に他ならなかった。…

見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書

 

マルクスの『資本論』を「ふつうの古典」として「現代社会」を理解するための素材として見田宗介(=真木悠介)は読み解きながら、上記の文章を語っている。

「貨幣とは外化された共同体である」という真理は、次の時代にぬけてゆくために、ぼくたちが理解しておくべきものである。

貨幣(お金)がそれ自体ただの「紙切れ」やただの「硬貨」でありながら、それへの執着をうながす根拠は、それが<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>であるからだ。

それはそのようにあるものとして、「市民社会の物神」(真木悠介)である。

 

ぼくが住んでいるここ香港は、貨幣(お金)ということのとても敏感な社会である。

それは、共同体的な基盤が確固としていない中で、生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」にたくす、「外化された共同体」である。

また、ぼくが以前住んでいた東ティモールでは、「市場のシステム」の浸透のプロセスに置かれていた。

それは、グローバル化と共に、世界の市場システムという「共同体」につながりながら、しかし、貨幣が必要な生活に投げ込まれることでもある。

 

そのような「貨幣」が今さまざまな角度から問われることの背景には、「共同体」というものの変容がある。

「市場のシステム」はグローバル化のもとに進展し、他方で先進社会の「近代核家族」はその解体という契機に直面している。

 

 いま生の精神的な根拠もまた…その凝縮を失って散開するのだとしたら、新しく限定され/普遍化されたコミュニケーションの媒体として、現代的な市民社会の存立のメディアであるが故にその<諸主体の主体>として立ち現れるのは、情報のテクノロジーである。電子メディアのネットワークは、このように完成され純化された近代のシステムの、外化され物象化された共同体である。
 共同体を微分し/積分せよ、という<近代>の未完のプロジェクトはここに、「主体」のその深部に至る領域化、という仕方で完結する。

見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書

 

この「情報のテクノロジー」が、時代を先に押し進めながら、同時に「共同体」の変容を促している。

貨幣も、この歴史的な変容の中で、その新たな行く先へと視線を向けている。

貨幣の問題は、人がどのようにつながってゆくのか、あるいはつながっていかないのか、という課題へと、ぼくたちの社会の「基盤」を揺らがせている。

「世界で生ききる」ために、この問題と課題は、この「基盤」を正面から直視していくこと。

ぼくたちは、そのような時代の「過渡期」に置かれている。