日常思考による「進化論」にたいする誤解。- 吉川浩満『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』 / by Jun Nakajima


「進化論」というトピックは人をひきつけるものでありながら、専門家ではなく素人にとっては、進化論についてわかっているようでわかっていないような、でも誰でも「知っている」ものだ。

人はふつう、生物の進化を「生き残り」の観点から見るのにたいして、逆に「絶滅」の観点から生物の進化をとらえかえすのが、吉川浩満の著作『理不尽な進化論』(朝日出版社)である。

この「絶滅」の観点は、これまで地球上に出現した生物種の内、99.9%が絶滅してきたという事実から考えれば、確かに説得力がある。

著者の吉川浩満に着想を与えた二冊の本は、動物行動学者リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』と、真木悠介『自我の起原』であったという。

ちなみに、ぼくに「進化論」の世界をひらいてくれたのも、吉川にとってと同じく、真木悠介『自我の起原」である。

この二冊にみちびかれるように進化論の世界にはまるなかで、古生物学者デイヴィッド・ラウプの著書『大絶滅』に出会い、「絶滅」の観点を得て、すべての「ピース」が揃ったのだと、吉川は書いている。

そのように吉川の中で生成した本書は、専門書でもなく学術書でもなく、一般の読書人に向けられている。

進化論を解説したり評価したりすることよりも、「進化論と私たちの関係について考察すること」を本書は主目的としている。
 

【目次】

序章 :進化論の時代
第一章:絶滅のシナリオ
第二章:適者生存とはなにか
第三章:ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか
終章 :理不尽にたいする態度

 

第一章で「絶滅のシナリオ」を語り、第二章で素人の進化論にたいする誤解を理解し、第三章で今度は専門家間の紛糾へと移行し、終章へと向かう。

この展開は、本書の主要な主張に沿う形式でもある。

第一章の「絶滅のシナリオ」を振り返りながら、吉川は次のように書いている。

 

 本書の主要な主張のひとつは…素人が見ないことにしているものと専門家が争っているものとは、じつは同じものー進化の理不尽さーなのではないかというものだ。…絶滅にかんする事実と考察こそが、こうした視点を与えてくれるはずだ。… 
 私たち素人がめんどくさいから無視している進化の理不尽さは、専門家のあいだではめんどくさいからこそ争点になりうる。私たち素人が理不尽からの逃走を行なっているのだとすれば、専門家たちが行なっているのは理不尽をめぐる闘争なのだ。ふつう、素人と専門家が共通の課題をもつことはないし、その必要もないと私は思う。しかし、進化の理不尽さをどうするのかという一点において、両者は共通の課題をもちうるのである。この理不尽さこそ、進化論が私たちに喚起する魅惑と混乱の源泉だと私は考えている。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

「理不尽からの逃走」としての素人の誤解は第二章で論じられ、そして「理不尽をめぐる闘争」としての専門家の紛糾が第三章であつかわれる。

素人の誤解という「理不尽からの逃走」の展開は、とてもスリリングだ。

この「理不尽さ」にあてられるのが第一章の「絶滅なシナリオ」だ。

結論的には、「理不尽な絶滅シナリオ」という観点で、生物の進化をみることである。

吉川はこのシナリオをひとことにして、「遺伝子を競うゲームの支配が運によってもたらされるシナリオ」と書いている。

 

「理不尽な絶滅シナリオ」は、前出の古生物学者デイヴィッド・ラウプの理論である。

ラウプは「絶滅の筋道」として三つのシナリオに分類できるとして論を展開していく。

  1. 弾幕の戦場(field of bullets):無差別爆撃のように、犠牲者はランダムに決まってしまう。運のみが生死の分かれ目。
  2. 公正なゲーム(fair game):ほかの種との生存闘争の結果として絶滅。
  3. 理不尽な絶滅(wanton extinction):上記1と2の組み合わせ的シナリオ。

「理不尽な絶滅」は、要約的には「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的だが、通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすいというわけではないような絶滅」であるとされる。

ラウプも吉川も、この3つ目のシナリオを選びとる。

天体衝突による恐竜の絶滅は、天体衝突により「遺伝子を競うゲームの土俵自体が変わったこと」という不運、それから「たまたまもたらされた衝突の冬が、たまたま自分にとって徹底的に不利な環境であった」という不運という二重の不運に見舞われたことになる。

素人であるぼくたちは、どうしても2の「公正なゲーム」を進化論に連想しがちだが、「理不尽な絶滅シナリオ」はその遺伝子的ゲームに加えさらに運をもちこむのだ。

 

この「理不尽な絶滅シナリオ」を確かめながら、本書は「理不尽からの逃走」である素人の誤解について、明晰な論理を展開する第二章へとつながってゆく。

ぼくたちは、進化論といえばダーウィンをあげ、自然淘汰説を語る。

吉川は丹念にひもとき、明晰な論理展開で、議論をときほぐしながら次のように書いている。

 

…自然淘汰説を言葉のお守りとして用いる社会通念の正体はなんなのか。それは、発展法則にもとづいた定向進化を唱える、発展的進化論の現代版である。私たちはそれをダーウィンの思想だと思っているが、じつはそれはダーウィン以前に誕生し、ダーウィン以外の人物によって唱えられた、社会ラマルキズムないしはスペンサー主義と呼ばれるのがふさわしい代物なのである。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

リチャード・ドーキンスの分類によると、これまでに考案された進化理論は3つに分類されるという。

  1. ラマルキズム
  2. 自然神学
  3. ダーウィニズム

専門家たちは「3.ダーウィニズム」を採用しながら、しかし社会通念は「1.ラマルキズム」という発展的進化論を信じている。

1も2も「目的論的思考」に合致する考え方で偶発性の入り込む余地がない一方で、3のダーウィニズムは自然の「偶発性」をとりこむ理論だ。

このようにダーウィンの進化論はまったく新しい進化論であり、社会通念として誤解されている。

社会では、ダーウィンの名のもとで、「非ダーウィン的な進化論」が通念として普及しているということになる。

吉川はこの誤解の背景や議論や理論や言葉などを、第二章で丁寧に、丹念に、そして明晰に論じている。

 

ぼくはそれらひとつひとつに、思考と好奇心が触発されてやまない。

ぼくが大学院以降専門にしてきた「途上国の開発学」との関連からも、論じるべきところはいろいろにある。

「発展的進化論」的な思考が、発展段階論などの思考に生きていたりする。

また、「次なる時代」に向かう過渡期において、今一度、「進化」ということを考えさせられることもある。

社会通念として、社会という土俵での「公正なゲーム」があまり疑われずに信じられてきた中で、しかし、現在の「土俵自体の変化」はその考え方自体にも変遷をもたらしてきているように、ぼくには感じられる。

自然科学と社会科学の接点から見えてくるようなことがある。

 

それにしても、ぼくも含めて、多くの人が「進化論」という世界にひかれている。

吉川浩満は「序章:進化論の時代」の最初を、次のように書き出している。

「私たちは進化論が大好きである」と。

そう、ぼくたちは進化論が大好きなのだ。