香港で、11回目の中秋節の夜を迎える。
昼間のにわか雨は地上を涼しくし、夜空に雲がひろがる中で、時々、月がその姿を雲間にのぞかせる。
香港は中秋節の当日は祝日ではないけれど、企業は(全てではないけれど)慣習上、夕方や午後などに社員が早帰りできるようにしたりする。
夜がやってくると、家族は子供たちをつれて、公園などにくりだす。
子供たちは、手に「(電気式の)提灯」をもって、楽しい様子で動き回っている。
提灯は、ハローキティなどの「キャラクター物」から、シンプルな物まで、いろいろある。
中には手作りの提灯まである。
そのような風景を今年も目にしながら、中秋節を迎える。
提灯の灯りだけでなく、子供たちや大人たちの笑顔で灯される風景を見て感じながら、いい風景だなと思う。
いい風景だと思いながら、二つのことを考える。
ひとつは、子供たちが子供たちであること。
子供たちを一定のイメージに押し込めるわけでは決してないけれど、子供たちが屋外で、歩き回ったり走ったりしている姿に子供たちを見る。
都会化と学歴社会の進化の中で、子供たちが早い次期から大人のような生活になげこまれる。
あまりにも対称的だけれど、東ティモールの山間部の子供たちは、学校が終わると山を駆け回る姿を、ぼくはいつも目にしていた。
どちらがいいとかそういうことではなく、ただ、子供たちが見せる笑顔は正直である。
二つ目は、夜の屋外での遊びという、非日常の経験である。
祭りや祭り的なイベントの「効用」として、日常に「非日常性」をひらくことで、人や社会の内に内包される混沌や無秩序的なものが現象する。
そうして、普段、日常として秩序立てられた人と社会に風穴をあけるようにして、バランスをとる作用がある。
非日常性を通過することで、その後に経験する日常は、これまでと異なる日常であるように感じられることもある。
さまざまな文化には、そのような非日常性の経験としてのイベントが、行事や儀式的に埋め込まれている。
中秋節に、夜遅くに屋外に出て、遅くまで遊ぶ。
日常においては、許されていない行為が、中秋節に一時的に解き放たれる。
文化という枠組みの中ではあるけれど、秩序を意図的に崩す。
そのような文化が、高度に都市化された香港で、生きている。
ぼくは、そんなことを考えながら、提灯をもって公園ではしゃぎまわる子供たちを眺める。
「子供」という「自然」が、その自然を花開かせるときである。
曇り空に月はあまり見えないけれど、地上では子供たちの笑顔が「月明かり」の明るさをたたえている。
公園いっぱいに笑顔がひろがる中秋節が今年も訪れていることに、ただ有り難さを感じる、香港で11回目の中秋節である。