<言説の鮮度>(見田宗介)ということ。- 「足が早い」言葉たちを生きる。 / by Jun Nakajima


ここのところ「言葉というもの」を見てきているけれど、<言説/言葉の鮮度>ということにもふれておきたい。

2000年前後に、ぼくが「言葉というもの」を取り戻そうともがいていたときに、見田宗介(社会学者)の書く言葉たちと向き合いながら、ぼくが学んだことのひとつである。

 

見田宗介は、1986年の論壇時評で、「教育のことばの困難」に向き合いながら、「言説の鮮度について」という、ぼくたちの目を見開かせるような文章を書いている。

雑誌に掲載されている「教育」に関する記事や特集における、教育の記録や報告にふれながら、見田宗介は次のように、言葉や関係性の本質にきりこんでゆく。

 

「子どもってほんとにすばらしい」「先生ありがとう!」といった、ことばだけをとりだしてみると「気恥ずかしくなる」ようなことばも、このような記録の中では生きている。これらのことばは、それが思わず生みおとされるその固有の場所の中では、それぞれに一回かぎりの、真実のことばなのである(そうでないことももちろんあるが、そうであることも一生に一度はあるのだ)。同時にこのような鮮度の高いことばは、言葉がその中で生きている<関係の海>の中から言葉として釣り上げられるとき、たとえば「子どもはすばらしいのです」という観念の一般性として抽出され、流通するとき、それは「教育くさい」言説として、あのわたしたちをへきえきさせる特有のにおいを発散しはじめる。魚が魚でなくなる時に「魚くさく」なることとおなじに。

見田宗介「言説の鮮度について」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

副題を「教育のことばの困難」とし、見田宗介自身が語るように、教育では子どもたちのためによかれと思って、「命」とか「輝く」とか「信じる」という言葉を説教としてならべながら、しかし逆に「シラケルことしかできない世代」をふやしてきたように、当時、ぼくは感じたのである。

 

 教育にかぎったことではないが、教育の現場でことばが輝いたり踊ったりするというとき、その輝きや躍動は、その時その場に立ち会った子どもたち、大人たちの中でだけ新鮮に生きつづけられる。それが他人に伝えられ、後世に残されようとするとき、苛酷な変質を開始するのだ。大事なことばだからしまっておいた方がいいのだよ、とでもいうように。
 子どもをめぐることばは愛のことばとおなじに、とりわけ足が早いのだ。

見田宗介「言説の鮮度について」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

ぼくは、見田宗介のこの言葉たちに出会ってから、<言葉の鮮度>というものへの視点を獲得し、それから<関係の海>そのものへの関心をふかめていった。

言葉が生きてこないのは、<関係の海>そのものが「死海」となってしまっていることもあるからだ。

関係の実質がない<海>からは生きる言葉は生みおとされないし、また<関係の海>が豊饒であればあるほどに、言葉さえも超えてしまうような「more than words」の世界が現出することもある。

 

「生きる」という言葉は、西アフリカのシエラレオネや東ティモールにおける<関係の海>の中では、ほんとうに切実な言葉として立ち上がってくるような言葉であった。

紛争を生きぬいてきた人たち、紛争をのがれてきた人たち、身近な人たちをうしなってきた人たち、日々を精いっぱいに今も生きる人たち、きびしいなかでも笑顔でいる人たち。

そのような<関係の海>の中で、思わずにはいられなかった。

「生きる」ことだけでも奇跡であること、を。

でも、それだけではなくて、「生ききる」ということの重力に引かれながら、ぼくは一歩でも前に足をすすめる。