言葉には、よく言われるように、「ポジティブ/ネガティブ」な言葉がある。
「ポジティブな言葉を使っていこう」というのはひとまずその通りなのだけれど、ついついネガティブな言葉も出てしまったりする。
ネガティブな言葉を発することは、それが人のことであれ、世界のことであれ、「自分と人/世界との関係」をネガティブに規定し、そのような物語としてつくりだしてしまう。
それはただの言葉だけにとどまらず、自分の描く対象の人や世界との「現実の関係性」において、言葉で描いたような物語として現実につくりだしていってしまう。
だから、ポジティブな言葉を使っていこう、ということはひとまずその通りではある。
その通りではあるのだけれども、他方で、ぼくは「物語の全体性」への視点を大切にしたい。
それは、人の「生きる物語」の基底をなすような、態度・姿勢であり、大きな物語である。
その基底となるようなものとして、ぼくは、<彩色の言葉>ということを考えている。
このコンセプトは、社会学者の真木悠介が言うところの<彩色の精神>から、「言葉」の視点で切り取ったものだ。
…フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明してみせる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。
この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、<彩色の精神>と<脱色の精神>というふうに名づけたい。
真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
『更級日記』から真木悠介がとりあげているのは、作者と姉が迷いこんできた猫を大切に飼っていたところ、姉の夢まくらにその猫がでてきて、自分が侍従の大納言どのの皇女であり、因縁があってしばらくここにいることを告げる、という話だ。
姉妹はいっそう猫を大切にあつかい、猫にむかって「大納言どのの姫君なので」などと話しかけると、心が通じているように思われる。
真木悠介は、夢により現実を解釈するという精神態度を、「彩色の精神」と呼んだ。
われわれのまわりには、こういうタイプの人間がいる。世の中にたいていのことはクラダライ、ツマラナイ、オレハチットモ面白クナイ、という顔をしていて、いつも冷静で、理性的で、たえず分析し、還元し、君たちは面白がっているけれどこんなものショセンXX二スギナイノダといった調子で、世界を脱色してしまう。そのような人たちにとって、世界と人生はつまるところは退屈で無意味な灰色の荒野にすぎない。
また反対に、こういうタイプの人間もいる。なんにでも旺盛な興味を示し、すぐに面白がり、人間や思想や事物に惚れっぽく、まわりの人がなんでもないと思っている物事の一つ一つに独創的な意味を見出し、どんなつまらぬ材料からでも豊饒な夢をくりひろげていく。そのような人たちにとって、世界と人生は目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴である。
真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
<脱色の精神>は、真木悠介がこの文章につづけて書いているとおり、近代の科学と産業を生みだし、人びとの心をとらえて、生きる世界を脱色していったのである。
しかし、「科学」そのものが<脱色の精神>ということでは必ずしもない。
伝記作家Water Isaacsonが追いもとめてきた人物たちーレオナルド・ダ・ヴィンチ、ベンジャミン・フランクリン、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズーは、「科学 science」と「人間性 humanity」をつなげてきた人たちである。
かれらにとっては、世界は「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」であったはずである。
かれらにとっては脱色の精神でさえも、<彩色の精神>に彩られてゆくような精神の磁場がつくられていたように、ぼくは思う。
このような<彩色の精神>を基礎に、<彩色の言葉>ということが、ぼくが考えていることである。
そこでは、脱色の言葉でさえ、(彩色の精神による)<彩色の言葉>で、彩り鮮やかな物語を語ってしまうような言葉たちである。
<彩色の言葉>は、世界や人生を「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」の物語として語る言葉たちだ。
歴史家のYuval Harariが焦点をあてるように、人間(サピエンス)のユニークな強さを与えるものは「フィクションとしての物語」である。
<彩色の言葉>は、個人の生だけでなく、それは人間たちが共有する「フィクションとしての物語」をも彩色してゆく。
脱色の精神と脱色の言葉により「何もないところ」まで来てしまったぼくたちが、個人の生と世界の物語を彩色してゆくこと。
そのような祝福された言葉として、<彩色の言葉>はある。