「雨」の風景。- 東京、ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港。 / by Jun Nakajima

 

香港はここのところ、雨の日が続いて
いる。
早朝に運動をする頃に、決まって、
小雨が降りそそぐ。
小雨が降ってはやみ、やんでは降る。

天気は「良い・悪い」で考えない、
ということを以前書いた。
ブログ「「天気がいい/悪い」と
言わないように。 - 自分の中に「地球」
を描く。」

晴れが良くて、雨が悪い、という考え
方には、自然から離陸した社会の
「前提」がすでにすりこまれている。

雨は、自然の、地球の恵みでもある。
なお、「好き・嫌い」は、個人の問題
である。

そんなことと、
ぼくが住んできた場所の「雨の風景」
が重なり、いくつかのことを書こうと
思う。

解剖学者の養老孟司は、著書『唯脳論』
の中で、「脳化=社会」について述べて
いる。
都会・都市は、人間の脳がつくりだした
「脳化=社会」であり、
人間が「コントロール」できる空間で
ある。

自然はコントロールできないものである。
雨も、コントロールできないものとして
都会・都市の外部からやってくる。
雨は、都会・都市では「やっかいなもの」
である。

他方、東京に住んでいたとき、
ぼくは、都会においても、「雨」を楽しむ
人たちがいることを、作家・沢木耕太郎の
エッセイで知った。
もう20年近く前のことである。
確か、傘を売っている人の話であったと
記憶している。
雨が降ると(雨の時期には)売り上げが
上がるということもあるけれど、
それ以上に、傘が彩る街並みに、心踊る
人を描いた作品であった。
(詳細はまったく覚えていない。)

大学2年を終え、休学して渡ったニュージー
ランド。
徒歩縦断の試みとトランピング(トレッキ
ング)の旅では、雨は、さすがに「恐怖」
としてあった。
都会ではなく自然の中だけれど、自然の中
だからこそ、歩く者にとっては、雨は厳しい
顔を見せる。

仕事の最初の赴任地、西アフリカのシエラ
レオネ。
アフリカと言うと、日本の人たちは雨のない
風景を思い浮かべてしまう偏見にとりつかれ
るが、
シエラレオネは雨期にはよく雨が降る熱帯
地域であった。
井戸掘削(プロジェクト)は雨期にはできず、
乾季の時期にスケジュールを組んだ。
雨期の移動は、車両がしばしば泥に足をとら
れ、移動を困難にさせる。
雨期に各村に調査に行っていたから、
車両が立ち往生する記憶が残っている。
また、雨は蚊を発生させ、生きていくには
厳しい環境でもある。
しかし雨のおかげで、例えば、アブラヤシが
よく育ち、パーム油が豊富にとれる。

東ティモールも、雨期はよく雨が降る。
コーヒー産地では、雨期の雨が大切だ。
とはいえ、コーヒー農園は、山をまたいで、
各地に広がっている。
強い雨が降ると、道がふさがれる。
四輪駆動の車両も、道のない道に、足をとら
れる。
他方、首都ディリは相対的に道は整備されて
いる。
しかし、雨が少ないと水が枯渇し、ディリの
水道の水が制限される。
雨が生に密着している空間である。

そして、香港。
高層ビルが立ち並ぶ、都会の「顔」をした
香港では、雨は「やっかい」である。
しかし、香港の高層ビル群は、互いに、
繋がっていることが多いから、雨を避けて
移動していくことが比較的容易である。
それでも、ぼくたちは雨を避けたくなる。

しかし、香港の小さな子供達は、雨を、
あっさりと「乗り越えて」しまう。
傘を売る人と同じように、
楽しげなレインコートと長靴を身にまとい、
色とりどりの傘を手にさしながら、
雨の降りそそぐ中に飛びだしていく。
雨に濡れても、気にせず、雨を楽しんでいる。
「子供」は「自然」なのだ。
(養老孟司も、子供は自然であること、
コントロールがきかないことをを述べている)

他方、自然の「顔」をした香港は、
海と緑をたたえている。
緑の木々たちに雨は静かに、そして時に強く
注ぐ。
そして、「雨の風景」は、ぼくの中で香港
を超えて、世界にひろがっていく。


雨を避けたくなる理性が働きながら、
ぼくの中に「美しい文章」のイメージが
ひろがる。
社会学者の真木悠介(見田宗介)が、
屋久島に住んでいた山尾三省に導かれて、
7000年を生きてきた「縄文杉」に会いに
行った文章である。

 

…一つだけ気にくわないのは、雨が降って
いる。熱く乾いた国々ばかりを好きなわた
しは、雨はきらいだ。けれど三省は、
縄文杉に会いに行くのは、こういう雨の日
がいちばんいいのだという。「こんなに
森が森らしい森に会いに行くのは、ぼくも
はじめてです」と、途々もいう。
 晴れますよ。という宿の人の見送りの
言葉に反して、雨は終日降り止まなかった。
…雨は明るくて静かな雨で、ほんとうに雨
が降っているのか、ただ霧の中を歩いて
いるのか、雨でなく光がさんさんと降って
いるのか、歩いているうちに、わからなか
った。その不可思議の明るさの中で、また、
あの時が訪れた。雨と雨でないものとの境
がなくなり、光が光でないものとの境が
なくなり、生と生でないものとの境がなく
なり、明るい水の降りそそぐ森だけがあった。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

ぼくも、「森が森らしい森」に、これまでの
人生で、幾度か、直接に出会った。

それは、例えば、ニュージーランドの北部
で、90マイルビーチから内陸に入ったとこ
ろの「森」であった。
90マイルビーチを数日かけて歩いた後、
雨が降りはじめたところで、ぼくはようやく
海岸線から内陸に向かって歩む方向を変えた。

そこでは、霧雨のような雨と光が降りそそぐ
森が、静かに、ぼくを包んだのであった。