「お金・時間・自分」という問題系をつきつめて。- 真木悠介が照準する「みんなの問題」。 / by Jun Nakajima


「真木悠介」は、社会学者である
見田宗介のペンネームである。

見田宗介は、「ペンネームは家出」で
あると、評論家の加藤典洋との対談で
語っている。
(『現代思想』2016年1月臨時増刊号、
青土社)

ペンネームを使うことで、
・締め切りがなく書きたいものを書く
・過去のイメージに縛られないで書く
ことができる、という。

その真木悠介が取り組んできた仕事は、
近代・現代に生きる誰もが直面する
問題に照準している。

 

1)真木悠介が照準する問題系

真木悠介が、追い求めてきた問題系は、
・お金
・時間
・自分(自我)
という、ぼくたちが生きていく中で
必ず直面していく問題系である。
直面する仕方は人それぞれである。

真木悠介は、これらの問題系に対して
それぞれ、次の著作を書いている。

●『現代社会の存立構造』(1977年)
●『時間の比較社会学』(1981年)
●『自我の起原』(1993年)

これら真木悠介の著作群を読んだから
といって、お金が増えるわけではないし、
時間が有効活用できるわけではないし、
また、エゴが解決するわけではない。

それは言ってみれば、著作、
『あなたの人生の意味 先人に学ぶ
「惜しまれる生き方」』(The Road
to Character)で、デイヴィッド・
ブルックス(David Brooks)がいう
ところの、
「履歴書向きの美徳」(履歴書に書ける
経歴)を磨くものではない。

むしろ、デイヴィッドが言う、
「追悼文向きの美徳」(葬儀で偲ばれる
故人の人柄)を磨いていくような著作群
である。

「履歴書向きの美徳」も、ぼくたちが
日々生きていく中では大切である。
ぼくたちの日々の「悩み」は、
これら3つの問題系に溢れていて、
ぼくたちは日々、それらに立ち向かって
(あるいは手放して)いく必要がある。

しかし、お金を一生懸命にかせぎ、
時間を徹底的に有効活用し、そして
「自分」の壁を表面的に乗り越えても、
それでも「生きにくさ」が残る(ことが
ある)。
どんなに自分ががんばっても、社会の
大きな壁にぶつかってしまうような
ところが存在している。

真木悠介は、「お金・時間・自分」の
問題を、「じぶんの問題」として
真摯に引き受けることで、だからこそ、
「みんなの問題」を引き受けてもいる。
「お金・時間・自分」という問題系は
真木悠介の生を貫き、
また、近代・現代に生きる人を貫く
生きられる問題系である。

 

2)『現代社会の存立構造』から。

ペンネームの真木悠介名で書かれ、
1977年に出された、
『現代社会の存立構造』は、
大澤真幸が総括するように、
「近代社会の、総体としての構造と
仕組みを、根本から理論化している」
書物である。

2011年から2013年にかけて、
見田宗介=真木悠介の『定本著作集』が
編まれた際には、しかし、
『現代社会の存立構造』は著作集から
外された。

「外した理由」を、加藤典洋との対談で
真木悠介は述べている。


『現代社会の存立構造』は読もうと
思ってくれた方はわかるように、
非常に抽象的で難解で面白くない。
つまり、誰にも読んでもらわなくても
いいから自分のノートみたいなものと
して…書いた。
…『存立構造』については、近代市民
社会の存立の構造みたいなものが
明確にできるという感じがあった。
…ただ、難しい議論だし、誰にも
読まれないだろうと。だから『定本』
から外しました。

『現代思想』2016年1月臨時増刊号、
青土社

 

それを見た社会学者の大澤真幸は、
それではいけないということで、
復刻版を、自身の解題を付して
出版している。

『現代社会の存立構造』は、
マルクスの『資本論』をベースとして、
しかし『資本論』に付着した政治性を
完全に切り離して、議論を進めている。

非常に難解だけれども、
この著作は、眼を見開かせる内容で
いっぱいである。
経済形態(商品、資本、合理化、
資本制世界の形成など)について、
普段、ぼくたちがその中に置かれ
ながら、でもその「前提」を問おうと
しないところに降り立っていく、
著作である。

そして、その議論は、
「時間」の問題に引き継がれていく。
著作『時間の比較社会学』は、
「時計化された生」を生きる
ぼくたちの生の成り立ちを明晰に
解明していく。

それから、真木悠介は、
「時間」につづく仕事として、
「自我論・関係論」を明確に意識し、
10年以上をかけて『自我の起原』を
完成させる。

真木悠介は、『自我の起原』の
「あとがき」で、自身の問いが純化
され、つきつめられていく方向を
こう表現する。


人間という形をとって生きている
年月の間、どのように生きたら
ほんとうに歓びに充ちた現在を
生きることができるか。
他者やあらゆるものたちと歓びを
共振して生きることができるか。
そういう単純な直接的な問いだけ
にこの仕事は照準している。…

真木悠介『自我の起原』(岩波書店)
 

お金、時間、自分(自我と関係)に
関する真木悠介の著作群は、
「ほんとうの歓び」をつきつめる
直接的な問いに応答する著作群である。
(それぞれの著作については、別途、
どこかで主題にしてみたい。)

その思索の一つの発端として、
『現代社会の存立構造』はあった。

 

3)「時代」の変わり目に。

そして、「時代」の変わり目に、
ぼくたちは直面している。

前出のデイヴィッド・ブルックスは、
「人生」という単位で「美徳」を語る。

経済を語るメディアは、景気・不景気、
あるいは産業構造変化として、数年から
数十年単位で、時代を語る。

真木悠介は、現代の諸相に見られる
ことも視野に入れながら、
人間の起原・社会の起原にまで降り
立ち、人間と社会の「未来」を語る。

カール・ヤスパースの言う「軸の時代」
というコンセプトにヒントを得て、
「現代」を新しい視野におさめる。
ヤスパースが「軸の時代」と名付けた
文明の始動期に、世界の思想・哲学・
宗教等が生まれ、世界の「無限性」に
立ち向かったことに、真木は眼をつけ
る。
そして今、世界は、世界の「有限性」
の前に立たされ、新たな思想とシステ
ムを要請している。

見方によっては、ぼくたちは、
二千年を超える時代の「変曲点」に
位置している。

ぼくたちが日々直面する、
「お金、時間、自分」という諸相は、
時代が変曲する局面にて、極限し、
先鋭化する。

世界の金融危機、経済活動と時間の
関連性と諸問題、それから、壊れる
「自我」など、
世界の「無限性」はその極限の地点
で、様々な問題を先鋭的に創出して
きている。

その中から、それらを乗り越えて
いこうとする様々な「試み」が
出てきている。

「お金」をとってみても、
ローカルカレンシーから、ベーシック
インカム、そしてビットコインなど、
「試み」が繰り返されている。

そして、この「変曲する局面」には、
「お金・時間・自分(他者との関係)」
を根本において理解しておくことが
大切であると考える。
「履歴書向きの美徳」だけでは、
やはり足りないのだ。

人生という単位で
「追悼文向きの美徳」を追求し、
数年から数十年という単位で
「パラダイム変化」を志向し、
数百年から二千年単位で
「思想・システムの構想」の冒険
に加わることが求められるのだ。

真木悠介(見田宗介)が照準して
きた仕事は、このようにして、
「みんなの問題系」である。

ここでいう「みんな」とは、
今現在生きている「みんな」だけ
ではなく、過去から未来にまで
照準する「みんな」であると、
ぼくは思う。

お金・時間・自分、という問題を、
生きられる問題として、真摯に
徹底的に引き受けてきた真木悠介の
仕事は、これからの「未来」の道と、
それを支える思想とシステムを構想
する際に、際限のないインスピレー
ションを、ぼくたちに与えてくれる。