「どんな髭剃りにも哲学がある」。
と、サマセット・モームが書いている
のを、村上春樹の著作でだいぶ前に
知った。
村上春樹は、
著作『走ることについて語るときに
僕の語ること』の「前書き」で、
モームのこの言葉に触れている。
サマセット・モームは「どんな髭剃り
にも哲学がある」と書いている。
どんなにつまらないことでも、
日々続けていれば、そこには何かしら
の觀照のようなものが生まれるという
ことなのだろう。僕もモーム氏の説に
心から賛同したい。だから…
村上春樹『走ることについて語るとき
に僕の語ること』(文藝春秋)
「だから…」と、村上春樹は、
作家として、またランナーとして、
「走ることについて書くこと」は
道にはずれた行為ではないと、
文章をつむいでいく。
サマセット・モームの作品を読んだ
覚えは、確か『月と六ペンス』である。
友人にすすめられて(確か海外にいる
ときに、東ティモールかどこかで)
読んで、ひどく感心してしまった記憶が
ある。
だからかどうかはよくわからないけれど、
村上春樹のこの文章は、
香港に来た2007年頃に読んでから10年
経った今も、ぼくの記憶に残っている。
この言葉の「原文」が、どのようなもの
で、どのような状況で述べられたかは
まだ目にしてはいない。
モームの著作『The Razor’s Edge』に
出てくるとの情報が検索で出てくるが
ぼくの眼で確認はできていない。
でも、この言葉は、ぼくの「内面」で、
次のように「変奏」が加えられる形で、
ぼくの生きていく道の「道しるべ」の
ようなものとして在る。
「どんな髭剃りにも『生き方』が
詰まっている」
「髭剃り」という行為には、実に、
いろいろなもの・ことが詰まっている。
例えば、
髭剃りの道具はT字カミソリか電動か。
髭剃りのプロセスはどうか。
髭剃りはどうやって学んだのか
髭剃りにかける時間はどのくらいか。
髭剃りをしながら、何を考えているか。
髭剃りのシェービングクリームは、
どんなものを、どのように使っているか。
などなど。
リストはまだまだ続いていく。
そして、ぼくはここ数年で、気づき、
心底納得するのである。
どんな髭剃りにも「生き方」が詰まって
いるということを。
そして、ぼくは反省することになる。
これまでの髭剃りを。
でも、それは、もう一段掘り起こすと、
反省すべきは「髭剃り」という行為の
仕方に加えて、そこに込められた、
生きる姿勢であったりする。
そこの次元では、「髭剃り」を超えて、
ぼくの他の行為に込められた「生き方」
と「生きる姿勢」のようなものが見えて
きて、反省することになる。
モームが言うように、
それは「哲学」でもよいのだけれど、
ぼくにとっては、やはり「生き方」が
詰まっていると言う方が、しっくりくる。
こうして、ぼくは、
毎朝の「髭剃り」に、気持ちを込め、
プロセスを組み替え、「新しい姿勢」に
入れ替えていく。
野球選手のイチローが、
打順を待ちながら、次のバッター・ボッ
クスで「儀式」を通過していくように、
ぼくも一日の「バッター・ボックス」に
立つために、髭剃りの「儀式」を通過し
ていく。
そこに、すべてが詰まっていると信じる
かのように。
モームに倣って、「髭剃り」の言葉を
持ち出したけれど、
そこには、日々暮らしていく中での、
些細なことがすべて代入できる。
どんな「◯◯◯」にも生き方が
詰まっている。
そして、それらは忙しい日々の中で、
「習慣」のベールのもとに、ぼくたち
からは見えにくくなっている。
だから「習慣のベール」を少しずつ
剥がす中で見えてきたりするのだ。
追伸:
Charles Duhigg著
『The Power of Habit』
のペーパーバック版を頂戴した。
Audibleのオーディオで持っていた
けれど、しっかりと聞けていなかっ
たので、最初から読み直しです。
シンプルに、習慣の力は相当に
強力であることを感じる、一行一行
です。