「ひとり旅」と「二人・集団の旅」とは。- <横にいる他者>(真木悠介)が開く視界と世界。 / by Jun Nakajima

 

香港にそれなりに長く住んでいると、
そこの風景が「当たり前」になって
くる。

車道の標識に「ミッキーマウスの
影絵」(香港ディズニーランドに
通じる道路を示す標識)があっても
何とも思わない。

「標識にミッキーマウスがいるんだ」

と、香港に遊びに来た家族や友人に
言われてはじめて、当たり前のもの
が当たり前ではなくなったりする。

標識のミッキーマウスが、
「不思議さ」を帯びて、目の前に
風景として立ち上がってくる。

香港に住んでいて、
香港の外から香港に来た
家族や友人などの「他者の眼」が
ぼくに「新鮮な眼」を与えてくれる。

日本で、海外の人と一緒に行動した
ときも、同じような場面に、
ぼくたちは出会うことになる。

日本に着いたばかりの留学生と共に、
東京や横浜の街を歩きながら、
ぼくは幾度となく、「新鮮な眼」で
これまでなんとも思っていなかった
場面に出会ってきた。

社会学者の真木悠介は、
「方法としての旅」と題する文章
(『旅のノートから』岩波書店)で
ぼくの眼をさらに豊かにしてくれる
世界の視方を教えてくれた。

「ひとり旅」にこだわってきた真木
悠介が、「二人・集団の旅」の豊饒
さを見直していく経験と思考のプロ
セスを綴る、感動的な文章だ。

真木悠介の思考は、いきなり、
垂直に深いところへ降りていく。

 

二人の旅、集団の旅の構造は、
人間にとって<他者>というものの
意味を、根底からとらえかえす原型
となりうる。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

真木悠介は、哲学者等が語る「他者」’
が、「私」と向かい合う形(他者が
私を見て、私が他者を見る)でとらえ
られていることに、目をつける。

それに対し、真木は<横にいる他者>
の視点を鮮烈に提示している。


…「同行二人」ということは、私が
二組の目をもって遍路することである。
集団の旅において私は、たくさんの目
をもって見、たくさんの皮膚をもって
感覚し、たくさんの欲望をもって行動
する。そして世界は、その目と皮膚と
欲望の多様性に応じて、重層する奥行
きをもって現前し、開示される。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「ミッキーマウスの影絵」が標識に
あるのを見ることができたのは、
ぼくが他者の眼を「私の眼」として
影絵を見たからである。

同じように、
日本で海外の人たちの見るもの、
感覚するもの、欲しいものなどを
通じて、ぼくはぼく一人では見ること
がなかったであろう仕方で、日本を見、
日本を感覚し、日本を味わってきた。

真木悠介の「方法としての旅」には、
ぼくたちの日々の充実感や驚き、
それから幸せというものの内実が、
端的に、示されている。
真木悠介は上記に続けて、次のような
美しい文章を書いている。


関係のゆたかさが生のゆたかさの内実
をなすというのは、他者が彼とか彼女
として経験されたり、<汝>として
出会われたりすることとともに、
さらにいっそう根本的には、他者が
私の視覚であり、私の感受と必要と
欲望の奥行きを形成するからである。
他者は三人称であり、二人称であり、
そして一人称である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「横にいる他者」が去った後にも、
その余韻が、ぼくの中に静かに残り、
香港の風景は、いつもと少し違った
風景を、ぼくに見せてくれる。

そして、そのような経験や感覚は、
日常から離れていくような「旅」だけ
で感じるものではなく、
日常という<旅>の中でともにする
<横にいる他者>たちによっても、
ぼくの世界は豊饒化されているという
ことを感じる。

世界で出逢ってきた他者たち。
日本で、アジア各地で、ニュージー
ランドで、シエラレオネで、東ティモ
ールで、香港でぼくの<横にいた/
いる他者>たちが、ぼくの世界の内実
を、ゆたかにしてきてくれた。

「生きること」のゆたかさが、
そこに、いっぱいにつまっている。