社会学者・見田宗介は、「三代目」という生き方、という面白い言い方で、未来の社会と生き方を構想している。
未来構想を共有する上では、共有しやすい言葉やイメージが一定の役割を果たす。
「三代目」という生き方、「三代目」という社会は、イメージをつかむためにも、面白い言い方である。
もちろん、面白いだけでなく、そこに展開される論は、抜け目がない。
『二千年紀の社会と思想』(太田出版)における見田宗介と大澤真幸の対談で示されたポイントを、ここではいくつかまとめておきたい。
まずは、一般的に言われる、一代目から三代目の描写は、次の通りである。
1)「商売」における一代目・二代目・三代目
●一代目:猛烈に稼いで豊かな財産を築き上げる
●二代目:一代目の苦労を知り、豊かであっても、さらに稼いでお店を大きくする
●三代目:辛苦を知らず、文化や趣味に生きて散財してしまう
見田宗介は、「売家と唐様で書く三代目」という、古い日本の川柳を取り上げて、説明している。
この川柳は、三代目は、散財のあげく、一代目が手にいれた家屋敷を売りに出さざるをえなくなり、「売家」という張り紙の字を唐様で書いたということ。
つまり、「ダメな・ネガティブなイメージの三代目」である。
商売もせず、アートや遊びに明け暮れるという、ネガティブなイメージで語られてきたことは、ぼくたちのー少なくとも、ぼくのー「イメージ」にはすりこまれている。
2)「三代目」というイメージのラディカルな反転
「三代目」というイメージのラディカルな反転をすることの必要性、またこの「三代目の社会」こそが人類の目指すべき社会だと、見田宗介は語っている。
ラディカルな反転は、次のポイントで述べられている。
●「三代目の生き方」が人間にとっての究極の幸福であること。つまり、お金を稼いだり権力をもつことではなく、文化や自然を楽しみ、友情や愛情を深めることを、人間は本来求めていること。
●「三代目の生き方」は、資源浪費も環境破壊もしない、共存する安定平衡的な生き方であること。
「売家と唐様で書く三代目」がつくられた時代の日本は「ゆたかな社会」ではなかったことに対して、今は物質的な豊かさを獲得した時代である。
「三代目」を、ラディカルに反転させていくことができる条件が、すでに存在している時代に、ぼくたちは生きている。
なお、「社会という視点」でみたとき、一代目と二代目の社会は、次のように語られている。
●一代目の社会:貧困のなかで生まれ育ち、貧しい社会に条件づけられた欲望をもつ(できるだけ多くの財産と物質的な豊かさを望む)価値観
●二代目の社会:豊かになっても、まだ成長、成長という価値観
「現代」は、「二代目の社会」(二代目末期の社会)であると、見田宗介は述べている。
(※日本のような社会を念頭に置いて話していると思われる。)
問題は、二代目の「価値観の遅滞」ともいうべきものだという。
社会学の理論には、文化は社会構造から遅れる(「文化の遅滞」)というものがあり、見田はこれを「価値観」に転用している。
…いまは、二代目末期の社会という感じがするのです。成長神話から抜け出せない根本的な理由は、欲望のpersistence(粘着力)とシステムの硬直性との双方から来る「価値観の遅滞」value lagということにあると思います。
見田宗介・大澤真幸『二千年紀の社会と思想』(太田出版)
3)「価値観の遅滞」と「先端(三代目)の価値観」との攻防
今は、見田のいう「価値観の遅滞」と、いわゆる「先端(三代目)の価値観」とが衝突を起こしながら、社会と生き方のダイナミクスを生み出しているように、ぼくには見える。
「仕事になるまで遊べ」と、芸人であり絵本作家のキングコング西野が書くとき、それは「三代目の価値観」に生きている。
そのキングコング西野は、子供のころから決めていたこととして「世間の人はどうでもいい」とNewsPicksのインタビューで語っている。
世間ではなく「友達」を大事にしてきたこと。
西野は、見田が言うような、まさに「アート、友情と愛情」に生きてきたわけだ。
「価値観の遅滞」に生きる人たちから見れば、そのような生き方はあってはならないし、信じられない。
ところで、クラウドファンディングでの創造的な企画である西野の新刊は、『革命のファンファーレ』と題されている。
それは、見田宗介が言う、三代目の社会へ移行していく「可能なる革命」、また別著での「名づけられない革命」などと、呼応しているように、ぼくには見える。
「革命」という言葉は、「価値観の遅滞」をきりひらく人たちに向けて、蒔かれている。
そして、「革命」は、これまでの歴史上の(抑圧的な)革命とはまったく異なるような、それ自体が「アート、友情と愛情」をいっぱいにつめこまれた魅力的な方法である。
人類は、「三代目」社会と生き方に、どのように向かっていくことができるのか。
「価値観の遅滞」だけでなく、「システムの硬直性」という大きな課題が、現代社会にはたちはだかっている。
そんな「三代目」の社会と生き方のことを考え書いている、ここ香港は、中国への返還から二十年をむかえた。
ぼくは、その20年の内、半分の10年をここで暮らしてきた。
この10年は、「二代目」をかけぬける10年であったと、ぼくは考える。
経済成長を一気に果たしてきたのだ。
それに追随するように、人や社会の新しい動向、法律の施行・改定などが、現象してきた。
香港の経済社会は、経済格差が激しいことなどから一概には言えないけれど、その先端において見る限り、「二代目末期」に入ってきているように、ぼくは感じている。