ここのところ、健康を見直していくなかで、「塩」が気になっている。
現代人の「体温低下」の原因として「塩分摂取の極端な制限」を挙げながら、医師の石原結實は、こんなことを書いている。
…すべての生命の源は、約30億年前に海水中に誕生したアメーバ様の単細胞生物である。約3億年前のデボン紀に、一部の脊椎動物が陸に上がってきたが、そのまま上陸すると干からびてしまう。よって、海水と同じものを体内に携えて上がってきた。それが血液である。
文字どおり、「血潮」なのである。血液や羊水の浸透圧と海水の浸透圧は酷似しているとされているし、鼻水も涙も塩辛い。我々人間の60兆個の細胞は、今でも血液という海の中に浮いて生活しているのである。
石原結實『お腹を温めれば病気にならない』(廣済堂出版)
さらに、石原は、「塩」を意味するラテン語「Sal」を取り上げている。
ラテン語「Sal」から、さまざまな「大切な言葉」が生まれてきたことに、目をつけている。
例えば、こんな感じだ。
●ラテン語の「Salus(健康、安全など)」:塩が一番おいしく健康に良かったから。
●「Salad(サラダ)」:生野菜に塩をかけたことから。
●「Salary(給料)」:古代ローマ時代の兵士の給料の一部は塩で支払われた(※いくつかの説がある)
語源はいろいろな気づきをもたらしてくれる。
気になったのは、塩や給料が大切だということだけではなく、そこに「人間と社会の歴史と未来」のことが語られているように、感じたからである。
もちろん、それが、ぼく自身の生においても、大切であることは言うまでもない。
「塩」というものは、それ自体、ぼくたちの人間の身体と、人間の社会のなかで、なくてはならないものであり続けてきた。
しかし、「塩」は、この二千年紀の人間社会の発展のなかで、例えば「Salary」(給料としてのお金)という、人間が共同幻想する「貨幣」へとつながってきたわけだ。
「塩」は、派生形態のひとつとして、それ自体で価値のあるものから、紙切れである「紙幣」などへと変遷しー「自然」から離陸することでー、人間社会の発展を無限にきりひらいてきた。
無限にひらかれたと思われた、その人間社会が、今、いろいろな壁にぶつかっている。
人間は、貨幣経済や都市化などを軸に発展をしてきたなかで、いつしか、生命の源であった「海の水」を汚し、人間の「血潮」(血液)を汚してきた。
「塩」そのものは、過剰摂取がさまざまな病気を引き起こすとも言われる存在になっている(石原は、極端な制限は体温低下を招くと警鐘している)。
とても唐突だけれど、そのような状況のなかで、「塩」が、人間と人間社会の転回のキーであるように、感じたのだ。
D.H.ロレンスの最後の著書『アポカリプス』は、ロレンスによるラディカルな文明批判と未来のビジョンの書である。
2001年9月11日の事件に際し、社会学者・見田宗介は、この書物を思い起こしていた。
見田宗介は、人間社会の「未解決の課題」である、「関係の絶対性」(人間の良心や思想に関係なく、軍事力や貨幣経済を媒介に客観として存立してしまう敵対的関係)を乗り越える方途のイメージを、ロレンスのこの書物に見たという。
…D・H・ロレンスが、関係の絶対性の思考に対置して依拠するヴィジョンは、一見思い切りとうとつであり、なんの説得力もないもののようにみえるものです。
ロレンスが、その死の床で力をしぼるようにして書き記したという最終章は、書きなぐるように飛躍する文体で、ぼくたちは太陽系の一部である。地球の生命の一部分であり、ぼくたちの血管を流れているのは海の水である。というようなことが語られている。
いきなりこういうことをいわれても、納得する人はいないと思います。けれどもわたしは自分自身としては、このロレンスが言おうとしたことに、深く納得しました。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
この文章を読み、ロレンスの『アポカリプス』を読みながら、ぼくも「感覚」として納得していたけれども、ぼくの目の前に広がる「海」、ぼくの内なる「海の水」(血潮)、それから「塩」が、論理として、より明確に見え始めてきた。
冒頭の文章とラテン語「Sal」は、その明確さに、言葉を別の角度から与えてくれたのだ。
人間も人間社会も、その発展の末に、「海の水」を汚し続けてしまった。
また、「海の水」からはるかな果てに離陸し、干からびてきてしまっている。
だからといって反近代のような地点に戻るのではなく、「発展」の恩恵とポジティブなエッセンスを取り出し、無数の課題を超えながら、未来を見据えていく地点に入っていくことだ。
そのときに、「塩」は、それ自体においても、また象徴やメタファーのようなものとしても、鍵となるものであると、ぼくは感じている。
だから、ロレンスにならって、ぼくも自分に言い聞かせる。
ぼくたちの血管を流れているのは海の水である、と。