社会学者・見田宗介は、名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)で、「現代社会」(情報化/消費化社会)をのりこえていく方向性と着地点を、「人間」(人間の生きることの歓び)への原的なまなざしで、提示している。
そのことを、シンプルに語る言葉が、タイトルに付した一文である。
「歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。」(見田宗介、前掲書)
この一文は、とてもシンプルだけれど、こめられている意味と論と熱意と願いは果てしなく深い。
(「論」としての、この一文にたどりつくまでには、見田宗介の生涯がかけられてきている。)
ぼくたち個人が、この生を生きていく上でも、コンパスとなるような言葉である。
そして、人間社会が「現代社会」をのりこえ、未来に着地する着地点(したがって、未来をつくる現在の実践の仕方)を、ぼくたちに示してくれている。
3点にしぼって、ポイントをまとめておきたい。
- 「ほんとうに大切なもの」を意識的にとりだす
- 「必要・ニーズ」理論を相対化する
- 「必要」という有限性を、「歓喜と欲望」という無限性で超える
1)「ほんとうに大切なもの」を意識的にとりだす
「ほんとうに大切なもの」は、ぼくたちの生のなかで、意外と、語られたり理論の軸となることはない。
現代社会では、功利主義的な(「何かのために」という)思考、つまり手段・方法に、焦点があてられてきた。
そのことの「弊害」は、理論上、三つあると、ぼくは思う。
● 手段・方法が「目的化」されてしまうこと(上位の「目的」を忘れてしまうこと)
● そもそも手段・方法を要請した「目的」が、語る人たちの間で異なっていること(実は求める「目的」が異なっていること)
● 手段・方法を要請した「目的」が、わからないこと(上位の「目的」がわからないこと)
だから、「ほんとうに大切なもの」を正面から語ることは、やはり大切である。
見田宗介は、美しい文章で、正面から書ききっている。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
この文章に続けて、見田宗介が述べているとおり、「必要・ニーズ」は、「功利のカテゴリー」である。功利・効用である「必要・ニーズ」は、歓喜と欲望のためである。
2)「必要・ニーズ」理論を相対化する
途上国の国際支援・協力を学びながら、また現場で実際に携わりながら、この「必要・ニーズ」ということが、理論と実践の中心に位置していることを、ぼくは感じてきた。
「必要・ニーズ」としては、食料、衣料、住居、上下水道、医薬品、教育施設などが、通常挙げられる。
国際支援・協力の現場では、これらは、とても大切である。
圧倒的な「必要の欠如」の現場では、「何のために」と深く考えている余裕もないことは確かだ。
大切でありながら、しかし、経済理論、開発経済論などは、「必要主義」的な発想にとらわれすぎていることを、ぼくは感じ続けてきた。
ぼくは、この「必要主義的な発想」に、どこかで違和感を持ち続けてきた。
そんな折に、見田宗介のこの一文に助けられたのだ。
食料や衣料や住居や水などの「必要」を満たしていくことが、人の生死をわけへだてるほどに大切であることを、ぼくは経験上知ってはいるけれど、それでもなお、見田宗介の言う、「必要」にも先立つ<人間の生きることの歓び>を正面から意識しておくことが肝要である。
そのような人間理解と「人へのまなざし」は、ぼくたちの言葉や行動にあらわれてくる。
そして、モノがあふれかえる現代社会の「先進国・地域」では、企業は「必要」を延々と産出しまた創出し、消費者は延々と消費する。
その生産と消費の歪んだ形と内実が、環境を壊し、資源を枯渇に向けて使い続け、また人もその内部に多くの問題を抱えるという状況を、つくりだしている。
3)「必要」という有限性を、「歓喜と欲望」という無限性で超える
『現代社会の理論』は、「情報化・消費化社会の現在と未来」と副題がついている。
現代社会を、情報化と消費化から読み解いている。
現代社会(の「ゆたかな社会」)は、それまでの「必要」を(戦争によって)つくらなければならなかった社会を、「情報」により欲望を無限につくりだすこと(自己充足的なシステムの完成)によって、乗り越えてきた。
ぼくたちは、「必要」以上に、欲望にしたがい消費を繰り返している。
例えば、ぼくたちは服を、必要以上に購入し、消費している。
こうして、社会や企業の「成長」が達成されていく。
しかし、そこに、環境と資源という「有限性」がたちはだかってきたのだ。
この有限性に対して、「歓喜と欲望」という<人間の生きることの歓び>は、「必要・ニーズ」に先立つものであり、無限にひらかれている空間である。
この「歓喜と欲望」という地平に社会を着地させていくことを、見田宗介は構想している。
歓喜と欲望は、「消費」ということを徹底的につきつめていったコンセプト(<消費>=生の充溢と歓喜の直接的な享受の位相における<消費>)でもある。
そして、人や社会の欲望を、禁欲や禁圧ではなく、「欲望」によってのりこえる、ということである(「欲望は欲望によってしか越えられない」)。
作家・批評家の加藤典洋は、『現代社会の理論』の革新性を読み取っている。
そして、環境・資源への警鐘を鳴らしてきたスーザン・ジョージなどの著者たちが、著書『成長の限界』で記した「持続可能な社会」の考え方を、「欲望」を軸に、書き換えている。
もともとは、このように書かれている。
持続可能な社会とは「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たす」社会である。
加藤典洋は、これに対し、こう書き換えた。
「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代の欲望をみたす」ことをめざす社会である。
加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社
ぼくたちは、個としての生き方においても、これからのビジネスということにおいても、またコミュニティや社会ということにおいても、「歓喜と欲望」の方に着地していく仕方で構想し、今を生きていくことができる。