社会学者の見田宗介(=真木悠介)の仕事と生き方から、ぼくは、数え切れないほど多くのことを学んできた。
今だって、見田宗介=真木悠介の本をひらかない日はない。
ひらくたびに、学びがある。
「明晰の罠」を超える「対自化する明晰」(メタ明晰)は、そんなことのひとつであった。
より正確には、教えられたことも数え切れないほどあるけれど、ぼくがこの身体で漠然と感じていたことに、言葉と論理を与えてくれた。
「学問」という領域を超えて、生きるという経験において。
明晰さということにおいては、これほど明晰な論理・理論を統合的に展開する人を、ぼくは他に知らない。
そのような見田宗介は、しかし、「論」ということについて、こんなことを書いている。
…わたし(見田宗介)は…人生のぜんたいが「論じるよりも、するものだ」と考えている。論を大切にしないということではない。千倍もさらに大切なものがあるだけだ。…「思想を実践する」といった倒錯した生き方をしたくないと思う。存在することのしずかな感動をわかち合うだけでいいのだ。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
日常において学問や思想や批評などにかかわっていない人にとっては、「人生のぜんたいは『論じるよりも、するものだ』」ということは、当たり前のことだと思われるだろう。
人は、学者や思想家、評論家・批評家やジャーナリストなどにたいして、「論じてばかりいて」と、思ったりする。
だから、「思想を実践する」という倒錯した生き方にたいする「距離の置き方」を述べることは、見田宗介自身に向けての「しないことリスト」であると共に、人生のぜんたいを「するよりも、論じるものだ」という生き方になってしまっている人たちへのメッセージでもある。
また、見田宗介は、一連の仕事を通じて、生と理論・論、知性にできることとその限界、理想と現実などにたいして敏感な姿勢をとりつづけてきた。
それにしても、人生は「論じるよりも、するものだ」は、例えば、見田のような学者などだけが、気をつけなければならないことだろうか。
ぼくは、そうは思わない。
誰もが、そのことを生き方にインストールしたほうがいいものだ。
思想や理論という体系的な言葉に限らず、人は、日々、会話のなかで、人を批判し、悪口をいい、意見をあれこれと述べる。
そうして、人生ぜんたいが、「論じる」もので終始してしまう。
さらには「する」にも到達しなくなったりする。
このように「論じるよりも、するものだ」という言葉は、さまざまに異なる角度と深度で、ぼくに現れる。
見田宗介は、前掲書の同じところで、こんなことも述べている。
…<実感>を手放した身体が<観念>という病を呼ぶのだ。<実感>を疑うのでなく、<実感>を信じつつ相対化するということ…。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
こうして、ぼくの「生き方の道具箱」には、さまざまな道具が並べられていく。
もちろん、それらは使われなければ、錆びてしまう。
ぼくは日々これらを使いながら、でも、ときに、見田宗介=真木悠介の文章を読み起こしながら、「道具の手入れ」を、せっせせっせとしている。