「明晰の罠」(真木悠介)を超えて。- 無知と明知を超える方法。 / by Jun Nakajima

社会学者の真木悠介(=見田宗介)は、「明晰の罠」ということを、名著『気流の鳴る音』で書いている。

「明晰」について、真木悠介は、次のように述べている。
 

…「明晰」とはひとつの盲信である。それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義、等々)の普遍性への盲信である。それはたとえば、デモクリトス、ニュートン的、アインシュタイン的等々の特定の歴史的、文化的世界像への自己呪縛である。
 人間は、<統合された意味づけ、位置づけの体系への要求>という固有の欲求につきうごかされて、この「明晰」の罠にとらえられる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
 

ぼくたちは、この「明晰の罠」を意識し、ほんとうの<明晰>を、生きていくことの方法として、あるいは生き方そのものとしていくことができる。

「明晰の罠」にふれて、真木悠介は、古代インドの哲学書である『ウパニッシャッド』の一節を引用している。


無知に耽溺するものは
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそうふかき闇をゆく

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
 

『気流の鳴る音』(1977年)で、(おそらくはじめて)取り上げられたこの一節は、およそ30年後に書かれた著作『社会学入門ー人間と社会の未来』のなかでも、取り上げられている。

真木悠介自身の生き方の核心に装填されていた方法である。

『気流の鳴る音』が「具体的な生成力」を持った思想スタイルの確立をめざしたように、「明晰の罠」を超えていく方法は、真木悠介の生に「具体的な生成力」を付与してきたものだ。

「明知に自足するものは、いっそうふかき闇をゆく」ということを、他に類をみないほどに「明晰さ」をもつ真木悠介=見田宗介は、自分に言い聞かせている。
 

もちろん、無知の方が明知よりもよいなどとは、言っていない。

それでは、「明晰の罠」は、どのように超えていくことができるのか?

真木悠介は、「対自化された明晰さ」という方法を提示している。

先回りして言ってしまえば、真木が書くように、<明晰さについての明晰さ>として「メタ明晰」ともいうことができるものである。

真木悠介は、カッコの使い分け(「」と<>)を活用しながら、次のように、「明晰の罠」を超える方向性を書いている。
 

「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明晰」でなく、「世界を止め」て見る力をもった真の<明晰>である。
「明晰」は「世界」に内没し、<明晰>は、「世界」を超える。
「明晰」はひとつの耽溺=自足であり、<明晰>はひとつの<意志>である。
<明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。
<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
 

このような<明晰>(「メタ明晰」)を、ぼくたちは、生きることの方法としていくことができる。

最近、メタ明晰の重要性を深く感じたのは、「スマホで朝生!~激論!AI時代の幸せな生き方とは?」(進行役:田原総一朗)に見た、参加者たちの「議論のすれちがい」であった。

「議論のすれちがい」の要因のひとつが、「明晰の罠」であったのではないか、ということだ。

発言者たちが、自身の「明晰」のなかに自分を呪縛していることから起きるすれちがいのように、ぼくには聞こえた。

「AI時代」という、「明晰」を対自化させないと語ることのできない時代と事象が、議論のすれちがいを、いっそう先鋭化させる。

ぼくにとって、非常に学びの多い議論(特に、この「議論のすれちがい」の位相)であった。

 

また、日本の社会の「外」にいることは、常に自己充足するような「明晰さ」をゆさぶる。

「教育」や「しつけ」のような仕方で身につけてきた「明晰さ」は、疑問に呈されることになる。

しかしまた、その「外」の社会で身につけていく「明晰さ」は、ぼくたちを、またもうひとつの「明晰さ」へと罠をしかける。

ぼくたちは、メタ明晰の方法を、生き方の核心に装填し、起動させておくことで、「明晰の罠」からのがれる。

まさしく、真木悠介がめざした「具体的な生成力」のある思想だ。
 

この具体的な生成力のあるメタ明晰という方法は、人類が過去から未来へとつらなる歴史のなかで、(おそらく)一度しか遭遇しえないような「転換点」である現代においてこそ、さらにいっそう求められる方法である。