久しぶりに、東ティモールの言語である「テトゥン語」を使って文章を書いた。
簡単なやりとりであれば、東ティモールを去った後もあったけれど、一対一を超える人たちに見てもらう文章を書くということで、姿勢を正して、気合いを入れて書く。
それほど長い文章ではないのだけれど、語彙と文法をひとつひとつ確認しながら、思い出しながら、書いた。
2003年の夏から2007年の初頭にかけて東ティモールに住んでいたとき、ぼくは、テトゥン語を覚えて、日常や仕事で使ってきた。
本格的に学ぶようになったのは、最初の一年にさしかかるころであったと思う。
最初は、首都ディリにいることが多く、なんとか英語ですすめることができたのだけれど、コーヒー生産地である山に行くようになり、テトゥン語がないとまったく生活と仕事に不自由するようになっていったことが、大きなきっかけであった。
だから、まったくの「必要性」におされて、学んでいった。
参考書などはあったけれど、もちろん他の言語とは比べものにならないほど少なかった。
今では、英語や日本語によるテトゥン語の参考書は、それなりに揃っているようだ。
そのような状態だったこともあり、ぼくがテトゥン語を勉強しはじめたころは、「音」から入っていった。
それまでの「言語習得」(英語も中国語も)は、ぼくは、「字」から入っていったけれど、テトゥン語は「音」で学んだ。
「音」を中心に学んでいく言語は、不思議なものであった。
そのようにして「音から学んだテトゥン語」は、日常でも、コーヒー生産者との会議でも、政府関係者とのやりとりでも、生きた。
実際に、テトゥン語は「書き言葉」というよりも、「話し言葉」として発展してきたようなことも聞いていた。
だからか、生活に必要な最小限の言葉であり、「近代的な言葉」はポルトガル語やインドネシア語が取り入れられている。
必要最小限な言葉であることは、しかし、生きるということの貧しさを意味はしない。
言葉が生まれでる、あるいは言葉の背景である、人と人との関係性は、豊かな「関係の土壌」を形成している。
シンプルな「言葉の世界」は、シンプルに、豊かにつながる人と人との関係性を表現してもいる。
ぼくにとっても「話し言葉」として覚えた言語だから、書くとなると、それなりの準備と確認が必要になる。
そして、すでに10年前に日常で使うことをしなくなった言語であるから、ぼくのなかの「言語の貯蔵庫」の具合が、気になった。
ネット上で手に入れた英語の参考書に目を通しながら、語彙を確認し、覚えていない言葉を探す。
でも、いったん、覚えていない言葉の情報の一片がわかると、「言語の貯蔵庫」のドアがひらきだす。
そして、言葉のひとつひとつから、東ティモールでの記憶が飛び立つのを感じる。
風景や交わした会話の断片が、思い出されてゆく。
それは、とても不思議な体験でもあった。
シンプルなテトゥン語の「言葉の世界」が、ぼくの記憶をきっちりと形づくっている。
そして、「言葉の世界」の外にひろがる、言葉にしてはならないあの感覚と体験が、そこにはいっぱいにひろがっている。