香港では、どこに行っても、ぼくたちはさまざまな仕方で「呼びかけ」られる。
「これを買わないか、あれを買わないか」という呼びかけだ。
販促の「呼びかけ」が、ぼくたちに浴びせられる。
ほんとうは、香港に限らず、情報化/消費化社会では、常に、ぼくたちは「呼びかけ」られている。
しかし、香港では、勢いのある広東語のリズムにのせられて、直接的な言葉がぼくたちに投げかけられる。
例えば、こんな感じだ。
コンビニエンスストアでは、レジで支払いをするときには必ず、レジ前に並べられた商品の購入をすすめられる。
洋服などを買いにいくと、ディスカウント情報がまず伝えられ、多くの商品の購入をすすめられる。
キャセイ航空では、飛行機が一定の高度に達してシートベルトのマークが消えた途端、機内販売とディスカウント情報が伝えられたりする。
食品市場では、フルーツを買うと、別のフルーツはどうか、と声が飛んでくる。
レストランでも、おすすめのメニューをすすめられる。
スーパーマーケットでは、プロモーターの人たちが、あちこちから声をかけてくる。
こんな感じだから、ぼくがもっとも使う広東語のひとつは、「必要ありません」だったりする。
先日は、「米線」と呼ばれる、お米でつくられた麺を食べに行ったところ、机の上に「広告」のシールが貼られていた。
電気製品系であったり、美容系であったり、ミニ倉庫(家具などの保管)であったりする。
「こんなところまで…」と、ぼくは複雑な気持ちをいだきながら、感心したりもしてしまう。
また、さらには、街頭募金の呼びかけは、募金してくれた人の服に貼り付けられるシールを「買ってください」という表現がされたりもする。
「販促の磁場」のなかに置かれて、ぼくたちは、常に「呼びかけ」られている。
ぼくは個人的にはあんまり好きでなかったりするけれど、それでも、好き・嫌いの感情を通りこして、いろいろと考えさせられる。
例えば、こんなことを考えたりする。
1)きっちりと伝えること
人(出身)や階層など多様性のある社会において、やはり「きっちりと伝えること」が必要とされてきたことである。
要望などは伝えないと、相手はわかってくれない。
そんな前提のなかで、言葉で直接的に伝える。
これは販促に限らず、仕事場でもそうであったりする。
日本的文化に慣れている場合、香港では「きっちりと伝えられる」ことにびっくりしてばかりではやっていけないし、相手に「きっちりと伝えること」が大切である。
2)プッシュ型・押しで売るということ
きっちりと伝えることとつながることとして、プッシュ型・押しの力で売ることが(すべてではないけれど)方法とされている。
相手がどう思うかにかかわらず、まずは伝えること、願いを伝えること、そこからの出発である。
それにしても、その「粘り強さ」には感心させられてしまう(もちろん声をかけることが「仕事のひとつ」とされていたりする)。
なんどもなんども、いろいろな人たちに声をかけていく。
そして、きっと、そのうちの幾人かは(あるいは相当な人が)、呼びかけに応えて、購入したりするから、方法は継続されていく。
3)「功利」をこえたところにあるもの
上で書いたような「功利」的な意図がまずはありつつも、ときに、ぼくは思ってしまう。
「功利」をこえたところとして、これは「挨拶」に近いのではないかということ。
販促という呼びかけの言葉は、人と人をつなげるような、挨拶的な言葉の役割を果たしているのではないかということ。
特に、食品市場での呼びかけは、そんな様相をみせる(だから、ぼくと妻は今朝、「呼びかけ」に応えて、すすめられたフルーツを追加で購入してしまった)。
「香港」というところは、歴史的にも人の移動が多く、ここに根ざす人たちのアイデンティティ形成の歴史は比較的に言えば長くはない。
そのような土地で、言葉の交わし合いは、人と人とをつなげるうえでとても大切であると、ぼくは思う。
だから、「販促の磁場」におかれながらも、ときに、ぼくはそんな感覚のなかで、販促という表層をこえて、笑顔をかえす。
静かにお金を渡し、静かに商品を受け取るよりも、「販促という名の挨拶」による言葉の行き交いのなかで物を買う方がよいのではないかと思ったりする。
そういうふうにカッコよく文章を終えたいのだが、あまりにも機械的な販促に、ぼくはそっけない応答をしてしまうことも多い(静かに買い物をしたいときって、ありますよね)。
そんなときにうっとうしく思ってしまう販促も、香港を一時的に離れると、ほっとした気持ちと、しかし他方でさびしさのようなものを感じてしまう。
そうして香港に帰ってきて、販促の磁場におかれると、「あぁ、香港だな」と思ったりする。
香港の「販促の磁場」はそんなことも含めて面白く、深く考えさせられてしまう。