「人間とは何か?動物との関係において、人間とは何か?」という果てしない探求への挑戦の書の一冊目である、大澤真幸著『動物的/人間的:1. 社会の起原』。
後述するように、シリーズ4冊の最初の著作である本書は、約140頁ほどとコンパクトだけれど、思索の深さにおいては、どこまでも深くいこうとする本である。
社会学者である大澤真幸の師である見田宗介の名著『自我の起原』に深く触発され、『自我の起原』がきりひらいた地点と視界を継承的にひろげてゆく思索だ。
『動物的/人間的』と題される思索は、次のようにシリーズ化され四分冊となっており、本書はその第I巻である。
第I巻: 社会の起原
第II巻:贈与という謎ー霊長類の世界から
第III巻:社会としての脳ー認知考古学と脳科学の教訓
第IV巻:なぜ二種類(だけ)の他者がいるのかー性的差異の謎
編集者との「執筆の約束」から10年以上かかって、ようやく第I巻が、2012年に世に放たれた(その後はまだ発刊されておらず、大澤真幸の「挑戦」が続いているものと思われる)。
第I巻目である『動物的/人間的:1. 社会の起原』の目次は次の通りである。
【目次】
第1章:生成状態の人間
第2章:原的な否定性
第3章:動物の社会性
第4章:<社会>の起原へ
社会学、哲学、進化論生物学、動物行動学、霊長類学、自然人類学などを横断しながら、すべての知を規定している究極の問いである「人間とは何か?」という人間の本質に迫る論考が構築されていく。
その探求のひとつの導きとして、人間の<社会>が、動物の「社会」との差異のなかで照らされる。
この本を「まとめること」は、まだぼくにはできないし(大澤真幸自身による「小括」も5頁ほどにわたっている)、あるいはすべきではない。
それほどに思索は深く、簡単にまとめることで、誤った理解を誘発してしまう危険性もある。
だから、ぼくの印象に残ったところのひとつを、ここでは挙げておきたい。
第4章において、人間の<社会>がいかに可能かということの考察のなかで、「仰向けに寝る赤ちゃん」という箇所がある。
人間の<社会>の起原を考えるうえで、動物との関係を考えるうえで、「赤ちゃんと親との関係」に注目することをヒントのひとつとしている。
ここで注目される「事実」は、人間の赤ちゃんは仰向けに寝る、ということ。
そして、仰向けに寝ても安定しているのは、人間の赤ちゃんだけだという。
ほとんどの動物は仰向けに寝ることができず、少しできたとしてもすぐに寝返ってしまう。
大澤真幸は「人間的な他者との関係の性質」を、「仰向け寝」に見て、「なぜ、他の動物は仰向けに寝ることはできないのか?」と、問いをすすめていく。
それは、個体の生存にとって危険だからである。
お腹の側には重要な臓器があり、それを外界にさらすことは危険だ。
その観点から、人間だけが、あえて「弱さ」を外界にさらす姿勢をとる。
なお、チンパンジーなどの類人猿の赤ちゃんは、仰向けにすると、母親の身体にしがみつこうとする。
仰向けになるということは、この母親との密着性が離れるということになる。
そこから、大澤真幸が注目するのは、母親の身体から離れることで、「眼と眼が合うこと」だ。
大澤真幸はここでこう語っている。
今、問うべきは、眼とは何か、ということである。見つめ合うことになる、その眼とは何か?眼は、本来、何のためにあるのか?…眼は、食物を探すため、獲物を探すために発達した器官である。だから、眼で捉えるということは、本来、攻撃的な意味をもっている。…
ところが、人間のみが、本来、敵意や攻撃、さらに憎悪の態度でもありうる、他者の眼を眼差すということで、同時に、親密さや情愛を表現することができるのである。…仰向けの赤ちゃんの眼を見て、赤ちゃんをあやすということに、眼と眼の間の、こうした「人間的な」関係の原点がある。赤ちゃんは、あえて他者から攻撃を受けやすい、仰向けという脆弱で無防備な態勢をとることで、他者から親密な眼差しを引き出しているのである。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
また、人間だけが「白い白目」を持つことを、大澤真幸は指摘している。
白目は「何を見ているか」をさとられやすくさせ、動物にとっては生存にかかわるのだという。
人間の赤ちゃんの「仰向け寝」の考察は、ぼくをひきつけてやまない。
大澤真幸は、この考察の行き着く先を、次のように書いている。
「仰向け寝」を手がかりにした、こうした考察は、人間における、他者との関係の特徴がどこにあるのか、ということを明らかにしてくれる。人間は、他者から離れることにおいて、他者に近づくのである。他者を遠ざけることを通じて近づくのだ。あるいは、見つめあう眼の関係がよく示しているように、人間は攻撃性において親密性を、憎悪において愛情を表現している。人間にとって、他者とは、まずは遠ざかるものである。…
…人間は、生きるために、他者(の助け)を必要としているとして、にもかかわらず、その他者からまずは距離をとる。…ここには、本源的な社会性からの明らかな逸脱があり、<社会>へと向かう一歩が孕まれていると言えるのではないか。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
「人間とは何か」という探求など必要ない、と言う人もいるだろう。
そんなこと考えなくても生きていけるし、あるいはもっと日々の「生活」が大切であるということもある。
しかし、大澤真幸が言うように、この問いは、一見そうではないように見えて、さまざまな知(素粒子の研究から金融政策の効果まで)がそこに収斂していくような問いである。
そして、いつか、ぼくたちの生きる道ゆきのなかで、必ずやってきては、ぼくたちを立ち止まらせるような問いである。
社会学者の見田宗介は、人間を「重層的にみること」の大切さを繰り返し語っている。
現代の人間は「重層的」な存在(生命性・人間性・文明性・近代性・現代性を帯びる存在)である。
ぼくたちは、誰もが、重層的な存在なのだ。
大澤真幸は、そのことを胸に、生命性から人間性の論理的な「橋渡し」を、この本のなかで果たそうとしている。
そして、見田宗介が到達した地点である、人の「相克」(だけでなく)また「相乗」の双方の契機が、ともに人と社会にあらかじめ仕掛けられていることを、大澤真幸も異なる角度から照射している。
このような根源的な問いと探求は、それ自体ぼくたちの本質に根ざす希求であると共に、これからの「新しい時代」を構想し、展開していく上で、一層大切なことであると、ぼくは思う。
少なくとも、それらはぼくの生にとって大切な視界をひらいてみせてくれている。