香港では、2017年8月23日に、香港天文台(気象庁)が「台風シグナル10」を発令した。
台風のシグナルの最上位にくる警報だ。
言葉としては、「ハリケーン(Hurricane)」と名づけられている。
ビジネスがとまり、株式市場が閉じ、飛行機もキャンセルされるなど社会への影響も大きく、ニュースは40億香港ドル(約560億円)から80億香港ドル(約1100億円)の損失を告げる。
一夜明けて見る、木々が根こそぎ倒れ、枝々が折れている風景に、昨日の強風と激しい雨の威力をみせつけられる。
共生系としての森の木々はそれでも台風をうけとめたようだけれど、例えば、人工的に一本一本植えられた木々たちのいくつかは強風に耐えきれなかったようだ。
他方で、人工的に、花壇に植えられている花たちは、いつもと変わらない姿をみせている。
ビルの壁や垣根や木々に守られる形で、木々よりもはるかに「弱い」花たちが、そこに強く咲いている。
その姿を見ながら、ぼくは「進化論」のことを考える。
20年ほど前から、ぼくのテーマとして、人や社会の「成長」や「発展」がおかれていて、それと並行する形で「進化」に関する文献を読んできた。
中でも、とりわけ、真木悠介『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店)は、ぼくの好奇心をひらいてくれた。
この著作に触発されて、大澤真幸は『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)を書いている。
大澤真幸は、この著作の中で、古生物学者であるデイヴィッド・ラウプの進化論から、進化というのは出来上がったものではなく、常に「適応へのプロセスにあること」を導いている。
ラウプの進化論は、正攻的な進化論ではなく、「絶滅」の視点から進化を考えるものとなっている。
「絶滅」のシナリオには、三つのパターンがあるという。
- 「公正なゲーム(fair game)」
- 「弾幕の戦場(field of bullets)」
- 「理不尽な絶滅(wanton extinction)」
一つ目の「公正なゲーム」は、「進化論」として一般的にイメージするもので、繁殖において有利な遺伝子をもっている種が生き残り、不利な遺伝子をもっている種が絶滅に至るというものである。
二つ目の「弾幕の戦場」は、たまたま運が悪い生物が絶滅に至るというシナリオである。
戦場で無差別に撃たれる弾丸(天体との衝突、火山噴火などの状況)のもとに絶滅するか否かは、生物的な優劣の差ではなく、運の問題である。
三つ目の「理不尽な絶滅」は、上記二つを合わせたようなところにある。
大澤真幸は、白亜紀の天体衝突による地球規模の寒冷化で絶滅した生物の中で生き残った「珪藻類」の例を挙げている。
珪藻類は、海流の影響で栄養分がとれない季節に「休眠する能力」をもっていて、それが地球規模の寒冷化という環境において役立ったという。
これが、前の二つのシナリオとどう違うのか。冬眠の能力が環境に適応的だったと解釈すると、第一のシナリオに回収できるように思える。しかし、珪藻類の冬眠の能力は、天体衝突に備えて進化してきた性質ではない。それは、もともと、湧昇流の季節的な変動に対応して進化してきたものである。ゲームのルールが偶発的に変わってしまったのだが、たまたま、前のゲームのために発達させていた能力が、後のゲームでも役立ったのである。こういうやり方で勝利者が決まったとき、われわれは、これを「公正なゲーム」だとは感じないだろう。「珪藻類は適応的な性質をもっている」とは言えない。そうではなく、ルールの変更の後に遡及的に、珪藻類は適応的だったと見なされるのだ。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
地球環境は、常に「変化」の内におかれている。
だから、進化の「適応状態」があるのではなく、常に「適応へのプロセス」の中に、生物は生きている。
真木悠介は、進化というのは適応をめざしている「試行錯誤の連続」だと言っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』太田出版)。
生物の「多様性」の本質はそこにあるという。
そのようなプロセスの中で、ときに「ゲームのルール」が大きく変わってしまうことがある。
木々が倒れ、枝々が折れている中で、花壇の中で美しく咲く花たちを見ながら、木々や花たちの環境というゲームのルールは人間によって変えられてきたことを、ぼくは考える。
そして、人間社会も「ゲームのルール」が大きく変わることがある。
現代という「過渡期」は、「ゲームのルール」が書き直されている/いく時代だ。
新しい時代に、ぼくたち一人一人がそれぞれに違った仕方で「花」を咲かせることができるとよいと思う。
ただし、人はその人生において「試行錯誤の連続」に生きている。
そのことが、人の「多様性」をつくってもいる。
その多様性の中で、「花」は今日咲くかもしれないし、明日咲くかもしれない。
ぼくたちにできるのは、日々の「試行錯誤の連続」を、豊饒に生きてゆくことである。
台風が通り過ぎたばかりの香港で、ぼくはそのようなことを思う。