世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。
この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。
1)ぼくと「音楽」
浜松という土地(「音楽のまち」。今は「音楽の都」を目指しているという)に生まれたことも影響してか、ぼくは小さいころから「音楽」と暮らしてきた。
ヤマハの音楽教室に通ってピアノをひく。
小学校の音楽会で、ピアノで伴奏をする。
中学のときには、バンドを組み、ロックやパンクの世界にひきこまれ、エレキギターをひく。
高校では、軽音楽部に所属してバンドを組み、ロックやオールディーズといったジャンルで、歌を歌い、ドラムをたたく。
大学では、バンド活動はしなかったけれど、ビートルズやオールディーズにはまり、東京の中古レコード店などをまわる。
「音楽」が、常に、ぼくと共にあった。
「共に」ということ以上に、生きていくうえでのひとつの軸であったし、生きるということの内実でもあった。
それは、ぼくの生きることの、なくてはならない土台と地層を形成し、その後の生活のなかで、ぼくを確かに支えてくれることになる。
2)地理と音楽
日本の外に出たときも/出てからも、音楽はぼくと共にあり、それは一層大切なものとなった。
大学2年を終え、ワーキングホリデー制度でニュージーランドに渡るとき、ぼくは「バックパッカー」と呼ばれる小型のギターを持って行った。
オークランドに住んでいるときは、日本食レストランのアルバイトが休みの日など、オークランドのメインストリートに座り、ギターを片手に歌った。
路上で一度歌ってみたかったのだ。
「Nothing’s gonna change my world…」(ビートルズの曲「Across the Universe」の一節)と歌いながら、通りがかりの人たちは、アジア人の若者に不思議なまなざしを向けていた。
オークランドを離れ、ニュージーランド徒歩縦断を目指したときも、ギターはぼくと共にあった。
歩きながらギターはひけないけれど、ひとり歩きながら、よく歌を口ずさんだものだ。
また、キャンプ場や路上でテントを立てては、ラジオの音楽番組に、耳をすませていた。
徒歩縦断がかなわず、トランピングにかえることになり、山を歩き、山小屋でそっとギターを奏でたりした。
その音色が、他国から来ていた人の心にしみいることもあった。
仕事をするようになって、赴任した西アフリカのシエラレオネ。
アフリカの人たちはダンスが好きだ。
ダンスを軸に、伝統的なアフリカ音楽、そして現代的なダンス音楽が流れる。
隣国リベリアから流入していた難民の人たちのための難民キャンプでは、伝統的なアフリカ音楽にあわせて、子供たちも大人たちも踊る。
シエラレオネの人たちも、コミュニティで踊る。
また、仕事のための移動はオフロード続きで過酷であったけれど、車のドライバーは、音楽のカセットテープを用意してくれて、音楽を流してくれる。
セリーヌ・ディオンの歌声に、疲れと悲しみ(の堆積)がやわらぐ。
紛争という「傷」がいったんは忘れられ、ひびわれた「世界」の断片が、ダンスと音楽のなかで、つながる。
次の赴任地、東ティモール。
アフリカとは異なり、音楽の色調は、ギターを片手にメロディアスな歌、といったところだ。
東ティモールの人たち誰もが知っている、五輪真弓の曲『心の友』。
ギターを片手に、ぼくはコードを鳴らせて、東ティモールの人たちと歌う。
コーヒー生産者の子供たちとは、ギターの音色にあわせて、いっしょに国家を歌う。
コーヒー生産者たちの組合グループには、ギターを寄贈して、コミュニティ活動の促進を手助けする。
東ティモールも、音楽と共にあった。
香港にうつってからは、もっぱら、音楽をきく方にまわる。
ポップ、ロック、クラシック、ワールド・ミュージックなど、さまざまな一流の音楽を、ライブできく。
世界という「地理」、日本の外に生きることの「空間」をひろげながら、しかし、ぼくの土台・地層としての「音楽」はぼくを支える。
大変なときに、ぼくは音楽に支えられる。
それから、音楽は、世界の人たちとの「つながり」を、地理(空間)を超えて創出してゆく。
ぼくの自分という「内なる世界」と、地球という「外なる世界」でのつながりを、音楽が支えてきてくれた。
3)歴史と音楽
「地理」(空間)だけではない。
「歴史」(時間)をも、音楽は超えてゆく。
ぼくの「過去の記憶」(おそらく、ぼくだけでなく多くの人の「記憶」)は、音楽と共にある。
ニュージーランドの記憶も、シエラレオネの記憶も、東ティモールの記憶も、音楽がうめこまれている。
また、クラシック音楽をきくなかで、ぼくは、ぼく個人の記憶ではなく、そのなかに「歴史の記憶」がうめこまれているように聞こえることがある。
そして、音楽は、「未来」への希望の音色でもある。
映画『戦場のピアニスト』のピアノの音色が「希望の音色」であったように、人をひきつけてやまない音楽は、人の「深い地層」におりてゆき、そこに光を点火する。
音楽は、ただ生きることの歓喜という「基層」にうめこまれた光の芯である。
このように、歴史と地理、時間と空間を超えてゆく音楽に、ぼくは支えられ、そして多くのことを教えらてきた。
村上春樹が語るように、文章を書くときに大切なことは「リズム」であることを、ぼくも音楽から学んだ。
仕事も、同様に、リズムと躍動感が大切である。
リズムと躍動感は、生きることと同義でもある。
生きていくうえで「何かがおかしくなる」ときは、きまって、リズムがおかしくなるときだ。
だから、ぼくは、「Add Some Music To Your Day」というビーチボーイズの歌のように、自分の生に「音楽」の音色と躍動を注ぎつづけていきたい。
ビーチボーイズはこの曲で「太陽の下で皆が自分の日に音楽を加えれば、世界はひとつになることができる…」と歌っている。
「世界がひとつ」になるかどうかはわからないけれど、世界のさまざまな場所で、世界のさまざまな人たちがそれぞれの仕方で、音楽を通じて、生きることの歓びという地層におりてゆくことで、肯定的なものが語られ創りだされることを願いながら、ぼくは音楽の音色と躍動を自分の生にそそぎたい。