「近代・現代の社会はどのような社会であったか/あるか」を説明せよとの設問が出されたら。- 見田宗介の文章に倣う。 / by Jun Nakajima


「近代・現代の社会はどのような社会であったか」を300字程度で説明せよと、試験の設問に出されたら、どのように書くことができるだろうか。

なお、設問は追記で、「合理性」および「自由と平等」というキーワードを必ず文章に入れること、とされているとしたら。

社会学者の見田宗介が書く文章の一部を見ていたら、この質問への徹底的に考えつくされた「魅力的な解答例」であるように思えて仕方なく、ぼくは、何度も何度もその箇所を読み返す。

それは、「世界の見方」を、ぼくたちに与えてくれる。

 

見田宗介は、この文章を、日本における「近代家父長制家族」の考察に続けて、次のように書いている。

 

 ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
 「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店

 

繰り返しになるが、ポイントを分けて再掲すると、次のようになる。

●「近代の原理」は、「合理性」であること

●「合理性」が、社会のすみずみまで浸透する社会が近代であること。それは「生きること」を生産のために手段化すること

●この「合理化」を支えたのが、実際には「近代家父長制家族」(父親が外で仕事をし、母親が家庭を守る「内外分担」の家族像)であったこと

●「近代の理念」は、「自由と平等」であること

●「自由と平等」は、実際には、社会の合理化優先の中で、「封印」されたこと(理念は一旦後回しにされたこと)

●合理化が社会に貫徹し、高度に経済成長した(日本)社会において、理念である「自由と平等」が(封印をとかれ)姿を現してきたこと

●「自由と平等」は、例えば、平等を求める女性であったり、自由を求める青年であったりすること

●「自由と平等」の理念のもとで、「近代家父長制度」とそれに連動し関連する道徳や制度などがくずれてきていること

ぼくは、見田宗介の文章を読みながら、頭の中で、上記のように、ひとつひとつに分解し、読み直し、ダイジェストしていく。

それぞれの文章に、深い考察が凝縮されている。

これらは「近代」という時代の全体像を簡潔にしかし深いところで理解させてくれるだけでなく、凝縮された文章の中に、現代の状況を語りあるいは分析するための思考のヒントがいくつも開示されている。

これらは、今現在、日々起きている事象、日本に限らず、世界で起きている事象を考えていく際に、その「骨格」を用意してくれる。

 

「合理化」=生産主義的な生の手段化、ということひとつをとってみても、それは、ぼくが小さい頃から感じてきた「生き難さ」の感覚の源泉のひとつである。

「将来役に立つから…」という社会の声の前で、現在の豊饒な生が脇に追いやられ、自分の生を生産主義的に手段化し成形していく。


また、「近代家父長制」に疑問をもちつつも、実は、現実にそれが合理化を支える制度であったことに、現実をつきつけられる。

「自由と平等」という理念の大切さにひかれながらも、現実の社会では、「合理化」と「自由と平等」の並行的な両立は容易ではないことを考えさせられる。

ぼくが携わってきた途上国などの状況と国際支援という文脈においてみると、考えさせられることばかりだ。

 

経済成長を果たし、つまり「合理化」を貫徹させてきたところで、「自由と平等」の「封印」が解かれる事象を、ぼくは現実にもメディアにもさまざまに見ることができる。

「人事」という領域ひとつとっても、話題に尽きない。

「働き方改革」は、誰もが知るところである。

日本における「近代家父長制度」の崩壊とともに、「自由と平等」の理念が開花し、例えば「多様性」が仕事・職場に一気に流入してゆく。

 

日々の事象やメディア情報に流されるのではなく、それらを大きな軸・骨格をもって見ること。

そのことの大切さと見方、思考の展開の仕方(生成力のある思考の方法)などを、ぼくは上記の文章を何度も読み直しながら学ぶ。

「大きな軸・骨格」をもったからといって、すぐに人生が好転するわけではないけれど、それは生きていく航路で、必ず、ぼくたちの生を支えてくれるのだと、ぼくは思っている。