「うら」(うらなう)を考える。- 「世界のあり方」の比較社会学(見田宗介)を頼りに。 / by Jun Nakajima


新年ということで、日本では「おみくじ」などを引いたりしている様子をここ香港で見聞きしながら、「おみくじ」や「うらない」のようなものへの、ぼくの関わり方を考える。

ぼくにとっては、(今ではまずやらないけれど)「おみくじ」や「うらない」で書かれたことや言われることは、ぼくの心身と対話するときのツールである。

書かれたことや言われることで「気になること」は、じぶんの心身に何か「身に覚え」があることであると、ぼくは考える。

つまり、じぶんのなかで、問題であったり課題であったりすることだ。

そこから、じぶんが感じたり考えたりする問題や課題をつきつめていく。

逆に「気にならないこと」は、特に気にしない。

気づきのためのツールである。

 

社会学者の見田宗介は、「世界のあり方」の比較社会学という視点で、原始人たちが感覚していた「世界のあり方」について書いている。

 

 アメリカ・インディアンのホピ族の言語…では「時間」というコンセプトではなく、近代文明を形成してきた諸文化の言語のように「過去/現在/未来」という基本的な「時制」もなくて、その代わりに「顕在態」(manifested)と「潜在態」(unmanifested)という二つの態様が、「世界のあり方」の基本のわくぐみを作っています。

見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書

 

近代人が使う言葉との対比をまとめると、次のようになる。

●「過去」「現在」=「顕在態」(過去のものは、この世界に「蓄積している」と感じられる)

●「未来」=「潜在態」(ホピの人たちは「心中にあるもの」と言う)

 

見田宗介は別の著作で次のように書いている。

 

…アメリカ原住民のホピ族などの文法も、未来をあらわす形式と心象をあらわす形式が同じである。「うら」(うらなう)ということばに標本されるように、上代日本人の世界の感覚ともそれは呼応している。ほんとうは、will、shallという、英語の未来をあらわす仕方が心意をあらわす語によってしかされないように、時間の次元が心象の次元であるということは、ヨーロッパ文化自身の古層にも普遍する直感であった。

見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫

 

これらに先立つ仕事(『時間の比較社会学』岩波書店)で、見田宗介(真木悠介)は、近代社会の「直線的な時間」とは異なり、原始共同体社会の時間感覚は「反復的な時間」であったことを、述べている。

顕在態と潜在態の反復、また、別の言い方をすれば、「おもての世界」(顕現している世界)と「うらの世界」(潜在している世界)の反復である。

原始社会や原始人たちの抱いていた「世界のあり方」の感覚だ。

 

文化のこれらの基底的な感覚と、「おみくじ」や「うらない」をしていた人たちの感覚がどのように交差していたのかは、わからない。

けれども、近代人がおみくじやうらないをしたときに「見る仕方」とは異なっていただろうと、推測する。

見田宗介が明晰に語っているように、原始人たちの感覚は、未来と心象がおなじ形式の言葉として使われる感覚に支えられている。

心象は「現在」、未来は「(現在ではない)未来」として、直線的な時間の内に感覚するのが近代人である。

 

そんなことを考えながら、原始人の人たちは、「うらない」のうちに、じぶんや事象の「心象」を見ていたのだろうと、ぼくは想像力をむけてみる。

「近代人」がついそうしてしまうような、起こるだろう未来の予測ではない仕方で、心象を見る。

しかし、近代人は「未来」という考え方を獲得し、世界をきりひらいてきた。

「未来」を信じ、構想し、行動していくところに、これからの「人と社会」の行く末は賭けられている。