「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」(真木悠介)を獲得したことは、人類の発展において、決定的に重要なことであった。
それは、お金やメディアなどの、人と人を媒介するものと、構造を同じにしている。
時間は、一年があり、半年があり、四半期があり、また月・週・日がある。
時計は、1時間、1分、1秒を告げている。
年末年始というタイミングには、ぼくたちは「時間」をより明確に意識する。
「2018年という時間」を、世界ぜんたいで共にお祝いをするという、つなげる力としての「時間」。
ぼくたち個人にとっても、「時間」をうまく味方につけることで、ぼくたちの生は豊かになる。
「時間」について考えながら、整体の創始者といわれる野口晴哉のエッセイを読んでいたら、「時の力」という短い文章に魅かれる。
時間が刻一刻とすぎていく様から、野口は書き始めている。
いつの間にか夏になり、秋になり、冬になる。
時というものは少しも休まない。…
この一瞬にも、永遠に連なる一瞬が消えている。
生くるはもとより、死ぬも病むも、また人を導くも、ともに生活するにも、この時の力を軽視してはいけない。
軽視する人は少ないが、忘れている人は多い。…
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉は「時の力」について、それを軽視している人や忘れている人に思い出させるように書いている。
生くることの全体に向けられながら、やがて、自身のよってたつ養生や治療を含めた「技術を修めた者」に向けて、言葉が集注され投げかけることになる。
時の力を生かすことを考えることが、技術を修めた者には何よりも必要だ。
世の中には芽生えた稲の伸びが遅いと、手でそれを引っ張って伸ばすような養生や治療が行われている。
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉の語る<時の力>は、明確に計測し見ることのできる「時間」ではなく、自然的な流れとしての<時>に触れている。
養生や治療に限らず、「技術を修めた者」にひびく言葉だ。
軽視もしないし、忘れもしない<時の力>だけれど、「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」の圧力と要請は、日々、ぼくたちにのしかかってくるものだ。
野口がこの文章を書いた数十年前に比較し、この「時間」の圧力と要請はいっそう強さを増している。
世界の人たちをつなげる「時間」と個人の生をひらいていく「時間」を味方につけつつ、どのようにしてこの<時の力>をも、生きることの実践としていくことができるのか。
その「方法」について野口はこのエッセイでは書いていないけれど、それはぼくたち一人一人に投げかけられた問いであり、ぼくたちの想像力が試されるところである。
思考や行動が狭く型づけられているなかで、どのようにしてこの想像力の翼を獲得していくことができるのかが課題である。