「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。
Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)に掲載された文章で、「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」という、ひときわ目を引くタイトルが冠されていたのです。
文藝評論家の「小川榮太郎」と聞いて、ぼくは誰かもわからずに読み始めたのですが、読み始めてからようやく、小川榮太郎が「新潮45」問題にまつわる人だということがわかりました。
ここ香港に住んでいると、日本のニュースに「自動的に」さらされることはなく(香港のニュースでいろいろと取り上げられるものもあるのですが)、むしろこちらから探しにいかないと(あるいは情報が入ってくるように設定していないと)、情報は入ってきません。
そんな状況で、「新潮45」問題のことはその概要を知りながら、個人名まではぼくの記憶のなかにはなく、高橋源一郎の文章を読みながら、ぼくは状況の一部と個人名を確認したわけです。
高橋源一郎のこの文章を読みながら、ぼくがちょうど書いていた「多重人格」につなげて興味深かった点は、つぎのような箇所に見受けられます。
「新潮45」問題についての原稿を書く準備として、小川榮太郎の全著作を読んだ高橋源一郎は、つぎのような印象を明確にもつに至ったというのです。
…おれは、小川さんの全著作を読み、ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し「他者性への畏れや慮りを忘れ」ない「小川榮太郎・A」だ。そして、もうひとりは、「新潮45」のような文章を平気で書いてしまう、「無神経」で「傍若無人な」「小川榮太郎・B」だ。…
つまり、高橋源一郎も明確に書いているように、全著作を読んだあとに、そこに、小川榮太郎の「二重人格」を見て取ることになるわけです。
このことについては、つぎのようにも書いています。
「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。…
ぼくは、小川榮太郎の書いたものをひとつも読んだことがないので、この見方に対してどうこう言うことはできませんが、「人格」という観点から、とても興味深い見方だと思うのです。
このことはちょうど「多重人格」のことを書いたあとであったために関心が向けられたのでもあったのですが、そもそも、ブログで書こうと思ったのは、高橋源一郎の「システム」についてでした。
つまり、この「全著作を読む」というシステムについてです。
高橋源一郎は、この「システム」について、つぎのように説明を加えています。
…おれがふだん励行している「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」システムについて触れておきたい。よく、「なんでそんな馬鹿なことするんだよ」といわれる。同感だ。だが、それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである。…
こうして、高橋源一郎は、パーソナリティをつとめるNHKラジオ「すっぴん!」で毎週ゲストを迎える前に、「全著作(作家以外の方は全作品)」を基本自費で手に入れてチェックすること(でも著作が400冊越えや出演映画が100本以上など膨大な場合にはすべてはチェックできず、ゲストに謝ること)を書いている。
このシステムとその徹底具合、さらに「相手へのリスペクト表現」としての実践であることに、ぼくは素直に感心してしまうのです(できることなら、ぼくもこのシステムを、じぶんにインストールしたいとさえ思うのです)。
でも、さらにぼくを捉えたのは、つぎの「効用」でした。
…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。以前、元大阪府知事・市長の橋下徹の言動にむかついて、批判してやろうと思い、やはり彼の全著作を取り寄せた。そのかなりの部分が絶版になっていたが、努力して集め、そして読んだ。そしたら、すっかり橋下氏が好きになってしまったのだ……。書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。
高橋源一郎は、この「効用」に、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」があるとさえ見ています。
この「全著作を読む」ことによる効用が、小川榮太郎を読み解く仕方に作用したことは、このブログの前半に見てきたところです。
なお、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」については、この文章の趣旨とずれてくることから、これ以上は説かれていませんが、このことは、ぼくたち一人一人が身に引き受けて、考えてみることであるように、ぼくは思います。
でも、ぼくたちは世界のすべての人たちを「全著作を読む」ように知ることはできないではないか、という意見も出てくることが予測されます。
それはその通りで、ぼくたちは誰もが、じぶんの生活空間において、「親密圏」とともに、「公共圏」という大きな圏域をもつことになります。
けれども、数の限りがあるなかでも「相手をリスペクトする」システムがじぶんに備わっており(100%でなくともそのようなシステムが形成されており)、実際に「嫌いだと感じていた人たちのことを好きになってしまう」体験・経験の積み重ねのなかで、それは、公共圏における他者たちに向き合う仕方を変遷させてゆくように、ぼくは考えるわけです。
好きにはならないかもしれないけれど、「リスペクト」することはできる、そう思うのです。