作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム(こちらのブログで触れました。「高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。」)。
この<リスペクトの作法>の効果・効用として、高橋源一郎はそこに「リスペクト以上のもの」を確認しています。
…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。…書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。
この体験の一例として、高橋源一郎は、橋下徹を挙げて、語っています。
批判してやろうと思っていた橋下徹の全著作を読むうちに、橋下氏が好きになってしまったわけです。
この実例のように「批判対象→好きになる」という心情移行ではなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト→リスペクト以上に興味をもち、耳を傾ける」という具合に、ぼくの心情移行を感じている他者として、シンガーソングライターの大江千里氏がいます。
大江千里(おおえせんり)は、1980年代にデビューしたシンガーソングライター。
他のアーティストたちにも楽曲が提供され、彼の曲が耳にはいる機会も多々あったと思うのですが、とくに好きということもなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト」という状態で今に至っていました。
その状態に変化をもたらした契機は、彼の著作を読んだことにあります。
とはいっても、高橋源一郎のように「全作品を読む・見る・聞く」システムを発動させたわけではなく、しかし、「著作を購入し読む」ということをしたわけです。
ぼくが関心をもったのは、大江千里の「ジャズピアニスト」への転向の物語でした。
2007年、47歳の大江千里は、腕試し的に出願していた音楽大学(ニューヨークにあるザ・ニュースクール・フォー・ジャズ・アンド・コンテポラリーミュージックのジャズピアノ科)の合格通知を得たことで、10代なかばに断念していたジャズへの思いと志にふたたび情熱の火を点火し、急遽日本での仕事をキャンセルし、愛犬のぴと共にニューヨークに旅立ってゆくことで、新たな人生を歩みはじめる。
この経緯が、『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』(角川書店、2015年)としてまとめられていて、この本を読み進め、大江千里の「ジャズ作品」を聴いてゆくなかで、ぼくの心情変化がすすんでいったことになります。
「全作品を読む・見る・聞く」システムの、ミニバージョンを発動させたわけです(大江千里の別の著作『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』も読もうかなと思うところです)。
ところで、ニュージーランド作家Patricia Graceの最初の著作『Waiariki』(1975)という短編集に収められている最初の短編は、「A Way of Talking」と題されています。
マオリの女性作家によって英語で書かれた物語が出版されたのは、この著作が初めてであったという、記念碑的著作の最初の一編です。
とても短い短編ですが、心を揺さぶられる作品です。
そこで語られるテーマのひとつに、マオリ人とヨーロッパ系の人たちとのあいだの、人種的な距離ということがあります。
異なる人種の人たちを「…人は」という語り口で語るなか、つまり「話し方(a way of talking)」のなかに、その距離が表出してくることを描いています。
この短編のなかには、この距離を縮めてゆくための「入り口」が語られているようにぼくは読むのですが、それはそのような語りに「固有名」を入れてゆくこと、そして、固有名によって個人と個人として関係をつくること、そのようにぼくは「入り口」が提示されているのだと思います。
それは、ぼくが東ティモールに住んでいたときに感じたものと交差することになります。
「ポルトガル人は…」と語られるなかで(東ティモールはポルトガルの植民地でした)、ぼくがなんとなく抱いていた「偏見」があったのですが、実際にポルトガル人の方に「固有名」で出会ったことを契機にして、カテゴリー的な偏見の枠が消えてゆくのを感じたのでした。
思えば、このことは世界のいろいろなところにいって、個人と個人で「出会う」ときに、ぼくが感じていたことでもあったのですが、東ティモールで、ぼくはより明確にわかったのでした。
そのような視点が、Patricia Graceの語りのなかに、「話し方(a way of talking)」の移行という入り口を読み取ったのでした。
固有名で人と出会うことは、高橋源一郎の「全作品を読む・見る・聞く」システムと共通する作法であるように、ぼくは考えています。
それは、ある他者を知ってゆく、という作法です。
好きになるか、嫌いになるか、あるいはその中間になるかどうかはわかりませんが、ある他者を知ってゆく。
そのことが、とても大切だと、ぼくは思うのです。