「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。 / by Jun Nakajima

「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。

そんな折に、思想家・武道家の内田樹が「多重人格」について書いている文章に、時期を同じくして出くわしましたので、ここではその文章を取り上げておきたいと思うのです。


ちなみに、内田樹のWebサイト『内田樹の研究室』は、1999年7月からのブログをアーカイブとしても残していて、ぼくは今、この1999年7月のブログから現在2018年に向けて旅立ったところです(ようやく、2000年1月にまで到達しました)。

1996年に、ぼくはニュージーランドにいて、徒歩縦断を企図して700キロほどを歩いたこと(でも縦断は4分の1ほどで断念したこと)がありますので、この旅路も、一歩一歩、今度は無理をせず、歩いてゆこうと思いながら、ブログを読んでいます。

ブログの「数」に限って言えば、年を経るごとに減ってきてはいるのですが、ある時期までは毎日だとか2日に1回といった頻度でブログがアップされているので、まだまだ旅路ははるか先までつづきます(1999年と言えば、ぼくがまだ大学に通っていたころだから、この旅路の長さが実感として感じられるのである)。

「内容」は多岐にわたるけれど、このブログが編纂されて本が何冊も出ているように、日々の出来事を綴ったブログを流し読みするというようわけにもいかず、2000年1月に書かれた「多重人格」についての文章のように、いくどもいくども、立ち止まってしまうのです。


というわけで、「多重人格」についてですが、この言葉を起点に小論文を書け、と言われたら、どのように書きますか?

内田樹は、アメリカで患者数数十万という「流行病」としての「多重人格」ということから書き出し、その定説にふれたうえで、「多重化した人格を統合する」という療法に対する疑義を最初から差しはさんで生きます。


…これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。
最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


このように、いきなり「自己とは何か」という根本的な問題にきりこみ、その「前提」を疑うことで、多重人格の問題に光をあててゆくのだけれど、ぼくはまったくもって、この「持説」に賛同するわけです。

内田樹は、パーソナリティの発達過程の話題へと話をすすめながら、つぎのように書いていくことになります。


…コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。
相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発…それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


さらに、別のブログでぼくがとりあげた「ほんとうの自分」や「自己実現」ということにも、ふれてゆくことになります。


「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


「自分を統括する中枢的な自我がなければならない」という予断については、微細に見ておくべきところです。

「本当の自分を探す」とか「自己実現」などの議論をひとくくりにして語ってしまう前に一歩立ち止まることが必要だとぼくは思いますが、メディアなどで表層的に語られてきたような「ほんとうの自分」や「自己実現」や「自分探し」が、どこかに「自分」というものが<確かなもの>として存在していることを前提にしているということはできるように思います。

この立場とは逆に、「自分」というもの(こと)が不確かなもので、「自分」は「場面」ごとに現象してくるという見方があり、内田樹も(ぼくも)そのように「自分」ということ(現象)を見るわけです。

このことは、ぼくは別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書いたわけです。

なお、それでは、この「自分」ということを根拠づけるのは何かという、次元を異にする問いがあるのですが、このことについてはここではこれ以上ふれないことにします(ぼくがいろいろ学んできて、じぶんが納得したのは、見田宗介=真木悠介による「近代的自我」の論点があることだけを、ここでは書いておきます)。


多重人格のこと、自己とは何かということ、そこに前提されていること、「大人」になることなどを展開しながら、内田樹は最後に、つぎのように書いています。


…私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」なの。…
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。…
私は「内田樹という名前で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


内田樹による話しの「最後」が、まさかこう来るとは予期しておらず、深く感心しながら、ぼくも思うのです。

明瞭に意識してはいなかったけれど、このホームページの「ぼく」も、「多重人格のひとつ」なんだということを。

でも、それも考えてみれば当然のことだと思います。

ぼくは、「多重人格」や「自己とは何か」という話を、日常の社会生活のなかでしているわけではないですから(日常のなかでその考え方を生かしてはいますけど)。