ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
見田宗介先生の著作などから、ぼくは「人や社会や世界」の見方を学び、その見方をぼくなりに日々採用して、人や社会や世界を見て、いろいろと考えるわけですが、ときに、ある特定の人や事象などについて「見田宗介先生ご自身の見方」を聴きたくなることがあります。
そのような「人」のひとりとして、小説家の村上春樹氏がいます(ぼくにとっては、作品が出ればかならず読み、尊敬してやまない小説家です)。
見田宗介先生が村上春樹あるいは村上春樹作品をどのように読み解くだろうかと、とても気になるわけです。
ぼくが見田宗介の(ほぼ)全著作を読んできたなかでは、1985年~1986年にかけて朝日新聞「論壇時評」として書かれた文章群のなかに、「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」と題された文章を見つけることができます。
その文章で、見田宗介は、村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)を取り上げています。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、村上春樹の一連の小説の流れにあって「画期」的な作品であり、見田宗介が論壇時評を書いていた年(1985年)に「日本文学の最大の収穫」と考えられていた作品です(ちなみに、『ノルウェイの森』で村上春樹から遠ざかっていたぼくが、村上春樹に回帰する契機となった作品でもあります)。
1986年に書かれた論壇時評(「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」)で、見田宗介は、つぎのように村上春樹に触れてゆきます。
昨年の日本文学の最大の収穫とされているのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社)と題された小説である。…村上はこの小説で、世界が限定されたものであるという断念の上にひとつの肯定をさぐりあてている。
<私は死ぬのだーと私は便宜的に考えることにした。……そう考えると私の気分はいくぶん楽になった。>見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
この作品への他の批評のことばなどを取り上げながら、見田宗介はさらにつぎのように「見て取る」ことになる。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識の死を前にしての、<限定された人生には、限定された祝福が与えられるのだ>という述懐は、わたしたちの心にしみとおる。
けれどそれは、何という老人風の知恵だろう。「世界の終り」を、いわば二重の物のように、はじめから伴走させている青年たちの世代の生の物語。
村上春樹は「世界の終り」を自同律の快ともいうべき都市として描く。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
こうして、文庫のページ数としては6頁(うち村上春樹に直接に触れるのは4頁ほど)のなかに、見田宗介は濃密に凝縮された文章を織り込んでいきます。
ここではすべては取り上げませんが、のちに論壇時評の「最終回」においてこれまでの論壇時評を振り返るなかで、「世界の終り」を「週末のような終末」として感覚する世代たちをみながら、見田宗介は、1980年代なかばから21世紀前半にかけての本質的な課題をより明確な形で提示してゆくことになります。
…<週末のような終末>の中で、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を素材に、現在の若い世代の、明るい終末の感覚のようなものを見てきた…
…この世紀末は次の世紀が来るかという問いを、思想の内部に抱いた世紀末である。
前世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、<人間の死>ということだ。
それはさしあたり具象的には、核や環境破壊の問題として現れているが、そうでない様々な仕方でも感受されていて、若い世代はこのことを日常の中で呼吸している。核や環境破壊の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなくなっているはずだ。未来へ未来へと意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。
二十世紀の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
小説の世界に看取される、若い世代たちの感覚を出発点として、その感覚が人類ぜんたいの課題である<あたらしく強い思想>の要請につなげられ、語られています。
あるいは、このあたらしい思想の要請が、見田宗介の眼を通して、「週末のような終末」を感覚する世代たちを看取するのだということもできます。
この双方向性の(徹底的な)まなざしは、見田宗介の見方であり、あるいはいっそう、その視点の行き来が「生きかた」そのものであるところに、つきない魅力がひそんでもいるわけです。
ここで語られていることは、この文章が書かれてから30年を経過しても、けっして古くなることのない、人類の課題たちのひとつ(もっとも大きなもののひとつ)を指し示しているように、ぼくは思います。
今も、具象的には、核や環境破壊の問題が「日常の問題」として立ち現れ、ぼくたちは、<人間の死>という極北のイメージを日々呼吸しています。
それでも、「未来へ未来へと意味を求める思想」の体現としての社会システムと人々の生きかたは、それをのりこえることができず、自転車操業的に作動しつづけている状況にあります。
これらをのりこえる契機としては、やはり、「物語」ということの力がとても大きいだろう、とぼくは思うのです。
「物語」は、村上春樹の小説のような「物語」だけでなく、人間たちが<共に生きる物語>ということを共同幻想するところまでを射程とする<物語>を含みます。
村上春樹の小説から、話題はずいぶんとひろがってしまいましたが、この「ひろがり」のなかに、見田宗介先生の「本質的な問い」が見えるわけです。
ところで、ぼくの知る限り、見田宗介先生は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降の作品に、他の著作等では触れていません(とはいえ、やはり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に触れたことがあるだけ、嬉しさの混じる「びっくり」ではあったのですが)。
それ以降の作品を読んでいらっしゃるとしたら、どのように「読んで」いらっしゃるのか、お伺いしてみたいものです。