あることを考えていると、思考がとめどなくなってしまうことがある。
あるいは、じぶんは「こう思う」と思った途端に、その自分の考えていることに対して、「ほんとかなぁ」という疑問符がつけられてしまう。
きりがないから、どこかでいったんとめるしかない。
以前はこんなこと考えつづけていても「無駄」のように感じていたこともあったけれど、いまではとくに「無駄」だとは思わない。
ぼくのなかでのこのような「移行」が、いつ、どんなふうに、どんな具合でなされたのかは知る由もなく、仮説や推測の域をでないが、ひとつ触れておくとすれば、やはり、この「私」という現象をあくまでも「現象」として理解し、その「私」のつむぎだす「生」が<ひとつの夢>であるということがより切実に、この心身に感じられるようになったことが、それなりにインパクトを与えたのだろうと、ぼくは思う。
そのプロセスにおいて、「生産的/無駄」という境界線も書き換えられたのだということもあると思う。
なにはともあれ、<いま>という時点で見れば、このような「知的活動」それ自体が楽しいのだということは言える。
思想家の内田樹は、つぎのように書く。
人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になる。
「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか?この言明が真であるという根拠を私はどこに見出すのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ……(以下無限)。
…「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」<recursion>と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいる。
真に科学的な知性とはそのような人のことである。内田樹『街場の読書論』潮新書
いわゆる「メタ認知」ということの、永久運動。
「考えている自分と考え」の外部にでることでそれらを対象化し、それらを外部から認識することが、いくどもいくども続いてゆくのだ。
なお、ここで触れられている「池谷さん」は、脳研究者の池谷祐二。
この文章は、池谷祐二の著作『単純な脳、複雑な「私」』の書評的な文章として書かれている。
この文章につづいて、この「無限後退」(あるいは「リカージョン」)を「生産的なもの」と感知する知性(リカージョンが生産的な理由は本人にとって「気持ちいい」からである)について、池谷裕二の本と知性に触れながら、内田樹は文章を書き継いでいる。
そうして、そのおもしろいポイントをつく書き継がれた文章の最後のほうで、つぎのようなことばがおとずれることになる。
…私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
これは人間の基本である。
子どもは「子どもには見えないものが見えている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。人間のすべての知性はそういう構造になっている。
「自分の知性では理解できないことを理解できている知性」(ラカンはそれをsujet suppose savoir「知っていると想定された主体」と呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次元を繰り上げることができない。内田樹『街場の読書論』潮新書
途中の文章を省いたから論理がとんだように見えるかもしれないが、「無限後退」(「リカージョン」)の探求を支えているのは、<誰か>が「すでに解いた/いずれ解いてくれる」という確信であるというのが、内田樹の説くところであり、その<誰か>は、論理的には「宇宙の設計者」以外にはいないと彼は書く(「真に科学的な知性」はその絶頂において「宗教的になる」のだと、内田樹は付け加えている。宗教ではなく「宗教的」である)。
そのようにして仮定された「私を超えるもの」、たとえば、子どもにとっての「大人」であったり、弟子にとっての「師」であったり(内田樹は別の著書でこのことについて詳細に書いている)、そのような<仮定された「私を超えるもの」>がなければ、ぼくたちは「成長できない」というわけだ。
自然科学を対象とする科学にとっては、「私を超えるもの」をつきつめてゆけば、それは「地球」や「宇宙」になっていくから、<仮定された「私を超えるもの」>は「宇宙そのもの」(擬人化して言えば「宇宙の設計者」)以外にはいないということになる。
いずれにしろ、「無限後退」(あるいは「リカージョン」)が、それを支える<仮定された「私を超えるもの」>によって架橋され、こうして「成長論」に接続されてゆく仕方は見事であり、ぼくはいつもながらに教えられるのである。