「人生には無駄なことはなにひとつない」と「人生は無駄だらけ」の序説。- どちらかではなく、どちらをも、生きる。 / by Jun Nakajima

「人生には無駄なことはなにひとつない」と言われたりする一方で、「人生は無駄だらけ」とも言われたりします。

人生には無駄なことはなにひとつない。

人生は無駄だらけ。

これだけを並べると、「どっちなの?」と聴きたくなる衝動がわきあがりますが、このブログを読んでいる方はどう感じられますか。

この短い文章は、「人生には無駄なことはなにひとつない」と「人生は無駄だらけ」の<序説>として、書いています。


どちらかをきっぱりと選んで、その選択に沿って滔滔(とうとう)と語るほうが、「はっきり」していて伝わりやすいものです。

ある人にたいして、特定の状況と特定のコンテクストのなかであれば、ぼくもその「明瞭さ」を選ぶこともあると思います。

でも、この言葉だけをとりだしてみるのであれば、どちらが正しいというものではなく、どちらもある種の「真実」を含んでいると言わざるをえません。


ぼくたちの生きるという道ゆきのなかで、「言葉」というものが、心の深いところでひびくということがあります。

「人生には無駄なことはなにひとつない」と、深いところで感じざるをえない人もいますし、あるいは、「人生は無駄だらけ」と思わざるをえない人もいるわけです。

おなじ人であっても、道ゆきのなかで、「人生には無駄なことはなにひとつない」と確信的に思うこともあるし、あるいは、「人生は無駄だらけ」と確信することもあったりします。

そのように、それぞれに思ったり、感じたり、信じたりすることの底流には、あたりまえですが、<経験>というものがあるわけです。

どのような<経験>が、これらの思いや考えや確信を支えているのかが、問われることです。


「人生には無駄なことはなにひとつない」という言明は、人生の特定の「時間軸における座標ー空間軸における座標」に立ちながら、すべてのものごとがつながってゆくように感じる経験です。

それは、この特定の「座標」(なにかの道がひらけるときだとか、なにかを達成したりだとかの立ち位置)から見たときに、これまでのさまざまな座標がつながって見えるということで、スティーブ・ジョブズが「connecting the dots (コネクティング・ドット)」として語ったことでもあります。

基本的には「これまで」(過去)のことがつながるのですが、人によっては、未来の「dots(ドット)」さえも鮮烈に見えてくるように感じることはあると思います。

このような経験は、人生のその先に「困難」が立ちはだかったり、あるいは自分がなにをしているのかよくわからないようなときでも、そのような状況における思考と行動が、いずれ、どこかで「つながる」ことを信じる力にもなります。

じぶんが描いてゆく「物語」のなかで、いろいろなものが「つながる」経験が、いずれにしても確かなものとして「見える」わけです。


「人生は無駄だらけ」の言明は、「人生には無駄なことはなにひとつない」におけるような、ものごとの「つながり」が途切れた状況のようにも見えます。

実際に、そのようにネガティビティのなかで感覚してしまう場合もあるかもしれません。

けれども、この言明がポジティブな方向に向けられることもあると、ぼくは思います。

「私」とか、その私の「人生」だとかは、よりつきつめてゆくと、あるいは次元をかえて見てゆくと、ただの「夢」、幻想された夢のように見えてくることがあります。

そのような次元では、人間のするすべてのものごとが「無意味」であったり、「無駄」であったり、「余剰」のことのように感覚されます。

でも大切なことは、無意味だし、余剰だからとニヒリズムにおちいるのではなく、「だからこそ」その夢を豊饒に生きてゆくしかないんだ、というところにつきぬけてゆくこともできます(「life is but a dream, dream is, but, a life」!)。

「人生は無駄だらけ」だけれど、無駄こそが「人生」だ、という転回です。

ある種「醒めた」見方です。

そんな「無駄」だからこそ、どこまでもいつくしむことが大事になってくるし、そのいつくしみのなかに「豊饒に生きる」ことの本質があったりするのです。

そこでは「無駄」ということさえ、その言葉の意味合いを解体させられ、あらたに生成してくるような様相があります。


こんなふうに見てみると、「人生には無駄なことはなにひとつない」も、「人生は無駄だらけ」も、どちらもある種の「真実」を含んでいるのであり、ぼくにとっては、とくに矛盾する言葉ではなく、次元を異にしながら、あるいは文脈を異にしながら、共存している言葉たちです。

なお、「人生」を「仕事」に変えると語り方は変わりますし、くりかえしになりますけれど、対象である人や語られる文脈によっても語り方は変わりますので、そんな意味でも、ここでの文章は、あくまでも<序説>です。