「差別語」に焦点があてられて、差別語はいけない、という議論がくりひろげられる。
あれもこれもが差別語としてあげられていて、文章を書くときにも、気をつけなければいけない。
でも「差別語」を考えるときに、もっともっと焦点をあてなければいけないことがある。
そのことを真正面からぼくに教えてくれたのは、真木悠介(社会学者)のことばからであった。
肯定性に充ちた真木悠介のことばは、<「差別語」が本人を決して傷つけない関係>からの視線で、「差別語」ということばの実質を流動させる。
「障害者」ということば自体が、差別語でありけしからん、という議論がなされる。紫陽花邑の人は、「この人は重度の身障者です」というようなことを、そこにホクロがあるというようにさらりと言ってしまう。そのことがそこにいっしょに立っている本人を決して傷つけないだけの、関係の実質をもっているからだ。
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
奈良の紫陽花邑(あじさいむら)というコミューンでは、たとえば、身体障害者が片手で食事をしていて、ごはんをこぼしたり、奇妙な身の動かし方をしたりするのを見て、それを見ている者も、本人も、「いっしょになって笑う」のだという。
一般的な「差別反対運動の精神」においては笑うことは許されないものだが、紫陽花邑では、おかしいものはおかしいと、本人もいっしょになって笑う。
笑いが、本人を傷つけないだけの<関係の実質>に支えられている。
この<関係の実質>という視点で、真木悠介は「差別」や「差別語」という根柢的な問題への<通路>をきりひらいてゆく。
差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま露出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。ひとつひとつの差別語が差別語として流通することを支える、この関係の総体性に切りこむことなしに、差別語を言語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語かに言いかえることは矛盾のいんぺいにすぎず、「新平民」とか”handicapped”とか「目の不自由な方」というような、新しい差別語を増殖させるだけだ。
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
差別語やその語られる状況に見られる傾向は、真木悠介の書くように、「差別語を言語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語かに言いかえること」であり、そのことが矛盾を覆いかくしてしまうのである。
「差別語を言語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語かに言いかえること」は、差別語に露見される<関係の実質>に切り込むための<糸口>として差別語の問題に向き合うのではなく、むしろ<関係の実質>への入り口をふさいでしまうことで、現実の人と人との関係性を「現状維持」としてしまうのだ。
そうして、「新しい差別語」は絶えず増殖してゆき、「差別語リスト」がどんどんと長くなってゆく。
「差別語」という言葉だが、なにか、それ自体が確かな「もの」であるかのように見えてしまい、人は、その「もの」をいかにしたらよいかという方向に視線を向けていってしまう。
けれども、そのような言葉が生成してきた「関係性」が社会のなかにあり、その関係性そのものへと視線をうつしていかなければならない。
なお、真木悠介の「方法」として、「社会学」というものがあり、「社会学」というものは「関係の学」だと、彼は明確に述べている(見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年)。
「社会」というものは、なにか「もの」のようにあるものではなく、その実質は、人と人との「関係」にある。
この「関係」という視点を入れることで、「もの」のように思われるものごとが流動化されて、そこにぬりこめられている矛盾などが顕現してくる。
このことは、たとえば、つぎのようなことばにも見られる。
唖者のことばをきく耳を周囲がもたないかぎりにおいて唖者である。唖者とはひとつの関係性だ。唖者解放の問題は、「健康者」のつんぼ性からの解放の問題だ。奴隷の解放と主人の解放、第三世界の解放と帝国主義本国の解放、女の解放と男の解放、子どもの解放と親の解放、すべての解放が根源的な双対性をもつことと同じに。
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
このことばは、ぼくの生きることのさまざまな局面で生きてきたことばである。
すべての解放が根源的な双対性をもつこと。
ぼくたちは、つい、どちらか「一方」を解き放とうと考え、行動してゆくのだけれど、その行動はいずれ、行き所のない「行き止まり」にたどりついてしまう。
ぼくが20代を通して(国際支援という仕方で)直接的に関わっていた「第三世界の解放」(発展途上国の解放)ということにしても、そのことは「帝国主義本国の解放」(先進国の解放)なくしては、根底的な解放にいたることはないのである。
なお、グローバリゼーションのなかで、「言葉」がグローバルに流通するようになってくるときの差別語の問題もある。
ただ、ひとつ言えることは、ローカルの小さい関係性のなかにおいても、<「差別語」が本人を決して傷つけない関係>という関係性をもつことがとても難しくなっている状況があるように、ぼくには見える。