香港のレストラン(レストランと言っても、いろいろだけれど、とりあえず)で食べていると、どうしても「周囲」が気になって仕方がないことになる。
誰かと思いっきり話し込んでいれば別だけれど、ふつうに食べていると、周りが気になってしまう。
マインドフルネスの実践で、食べ物と食べることに集中しようと思ってみても、「周囲」の雰囲気や声や音や動きやらが、どうしてもぼくのマインドに侵入してくるのである(というのは逆の言い方で、ぼくのマインドが周りの事物をキャッチしてしまう、というべきだろうが、感覚としては逆の言い方のほうがしっくりくるのだ)。
周囲はスピーディーで、パワフルで、「出来事」に充ちている。
香港独特の「速さ」が独特の雰囲気をつくり、パワフルな声と音が店内にひびき、なにかしらの「出来事」がおきる。
「出来事」は、香港の人たち(ぼくもいまは「香港に住む人」だけれど、なにはともあれ)にとってみれば「なんでもないこと」であるのだろう。
見るからに、余程のことが起きないかぎり、誰も周りを気にしていないようだし、それぞれに食事を楽しんでおられるのだ。
でも、ぼくの視覚や聴覚は、周りが気になる。
人であふれかえる店内、並んでいる人たち、店員さんたちのスピーディーさ、店員さんに要望やクレームを伝える人たちの様子などが、視覚や聴覚などから入ってくる。
それだけでなく、香港に11年以上住みながらも、ぼくはいまだに、香港の人たちがどのメニューをよく注文し、どのように食べるのかなども気にかかるから、失礼のないように、目を向ける。
また、ぼくは東京のレストランなどで働いていた経験があるから、レストランぜんたいを捉えながら、どう動き、どうサービスを提供するのかなどの視点もわりこんでくるから、さらに周囲への関心がかさなってくる。
こんなことで、香港の独特さ、異文化の諸相、レストランのマネジメントなどの状況や視点がぼくのなかで駆動されながら、ますますぼくは、レストランで周囲が気になってしまうのだ。
ところで、他のところに住んでいたときはどうであっただろうかと、ぼくは記憶をほりおこす。
東ティモールのレストランではどうだったか、西アフリカのシエラレオネのレストランではどうだったか。
それぞれの場所でも気になっていたと記憶しているのだが、でも、周囲への「気のとられやすさ」のようなところでは、香港が群を抜いているように、ぼくは感じる。
過去の記憶よりも「いま」の体験の鮮烈さの力が働いているのかもしれないけれど、前述したように、香港では、周囲はスピーディーで、パワフルで、「出来事」に充ちている、ということがあるのだと思う。
それらが総体として、ぼくの視聴覚にうったえてきてやまないのだ。
そんなことで、今日も、香港のレストランでやはり、「周囲」が気になってしまうのであった。