「古代日本人の夢の叶え方」として「予祝」(よしゅく)の儀礼を現代的意味のなかにとらえなおしながら、作家のひすいこたろうは、「予祝のススメ」について書いています(ひすいこたろうは、その後、大嶋啓介と共に『前祝いの法則』(フォレスト出版、2018年)を著しているが、ぼくはまだ読んでいない)。
ひすいこたろうは、ある神社の神官の方から教わったこととして、「お花見」というものは、古代日本人が秋の豊作を現実として引き寄せるための「前祝い」であったことを紹介しています。
春に満開に咲く桜を、秋のお米の実りに見立てて、仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、お祝いすることで願いを引き寄せる。
これを「予祝」(よしゅく)というのだそうで、ちゃんと辞書にも載っています。古代日本人がやっていた、夢の引き寄せの法則、それが「お花見」だったのです。
夏の盆踊りも、秋の方策を喜ぶ踊りであり、予祝だったわけです。祝福をあらかじめ予定するのです。
いわば前祝い。
先に喜び、先に祝うことで、その現実を引き寄せるというのが日本人がやっていた夢の叶え方なんだそうです。ひすいこたろう「「予祝(よしゅく)のススメ」~古代日本人の夢の叶え方」、Webサイト『ひすいこたろうオフィシャルブログ』
実際に、ひすいこたろうは「予祝」の方法を実践しながら、友人たちと「夢」を叶えてきた経験をベースに語っています。
古代の日本人にとって、生きるうえでの切実なこととして「秋の稔り」があり、それを確実にするための儀礼として「予祝」というものがあったのです。
この「予祝」については、社会学者の真木悠介も、著作『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)のなかで、古代日本人の「時間感覚・時間意識」を概観するなかで書いています。
「近代人・現代人」としてのぼくたちの時間感覚を基礎とするのではなく、「古代日本人」の時間感覚をともに理解してゆくことで、「予祝」という儀礼をよりよく認識することができるように思います。
予祝という、この時期の日本人の時間意識の構造を凝縮している行為は、このとおい未来の収穫の確実さへの、祈念の切実さということをぬきにしては理解しえない。
予祝とはいうまでもなく、春の農耕の開始に当たって、秋の収穫を予め祝うのである。平野が論じているように祈年祭とは、まさしくこのように、その一年の労働の意味に他ならない秋の稔りすなわちトシを、春にあらかじめ祝ってなされるミトシハジメに他ならなかった。真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年。岩波現代ライブラリー、1991年)
平野仁啓の『続 古代日本人の精神構造』(未来社、1976年)も参照しながら、真木悠介は「古代日本人の時間意識」を表現しています。
…その年のはじめに未来をあらかじめ現在化せしめる儀礼が、未だ来ぬトシに向かって辛苦しつづける労働の日々をとおして臨在し、<現在しつづける過去>の規格をこの未来に与えるのである。くり返しいえば、それはその年の長期にわたって外化された労働の意味に他ならない未来を既定の過去として設定することによって、これを現在しつづけるものとするのだ。
…<俗なる時間>において人間の労働が未来に向かうと同時に、平行する<聖なる時間>において、神の約束の未来が来るのだ。耕作労働への田の神の臨在がこのことを具象化している。平野はこのことを収縮する時間ととらえる。
収縮する時間はやがて、未来と過去と現在とがその一点に収斂する<時>に完結し、充足する。予祝とはこの時の収縮の呪術に他ならなかっただろう。真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年。岩波現代ライブラリー、1997年)
古代日本人にとっての「予祝」を考える際に気をつけておきたいことは、古代日本人の「時間意識」が、近代・現代人のように過去から未来へと無限にひろがってゆく「時間意識」ではないことのなかで、「未来」が現実化されていったことです。
そもそもが、古代日本人にとっては、「未来」は稔りの時間幅、つまり「トシ」の時間幅を限度としているようなところがあり、近代・現代人のように何年後や何十年後などの「未来」ではありませんでした。
異なる「時間意識」のなかで、<聖なる時間>を平行させ、<現在しつづける過去>の規格を未来に与えながら、秋の稔りにたいする祈りが現実化されてゆく。
このように、限定されたなかではありつつも、古代日本人はこのような方法をよく考えたものだと思います。
それでも、「方法」として「予祝」という仕方が現代における「夢の叶え方」においておなじような効果を発揮させてゆくのは、予祝と夢の現実化のあいだに、意識化・イメージ化、ポジティブな肯定さ、信じる力と信じることによる「現実の世界」を切り取る力、楽しさなどを、植えこんでゆくからです。
「未来へと向かう力」というだけでなく、「未来が現在となる力」(現在しつづける過去)として、人の描く「物語」は構成されてゆきます。
予祝の方法はなにも非合理的な方法ではけっしてなく、まったく合理的なものです。
途上で出会う「問題」に対峙するときも、解決できない問題ではなく、(「稔り」は約束されているという論理のなかで)「解決できる問題」として向き合うことになります。
そして、これらを共有する「共同体」としての力がいろいろに作動してゆきます。
そのような力として、「予祝」という方法があるのだと、ぼくは見ています。